安土桃山時代
| 安土桃山時代 | 明 | |
| 1568年 | 信長は京を追われていた足利義昭を15代将軍に立て入京する。 | |
| 1570年 | 信長を疎ましく思う足利義昭は浅井長政や朝倉義景らを味方につけ、信長と戦うが敗れる(姉川の戦い)。 | |
| 1571年 | 信長は延暦寺焼き打ちにし、強大な宗教勢力を屈服させた。 | |
| 1572年 | 14代皇帝万暦帝が即位し、補佐役に張居正が任命される。 | |
| 1573年 | 信長は義昭を京都から追放し、室町幕府が滅びる。武田信玄は三方ヶ原で徳川家康に勝利するが間も無く病死する。 | |
| 1575年 | 信長&家康連合軍は鉄砲隊を組織し、武田勝頼を破り(長篠の戦い)、翌年に近江に安土城をつくる。信長は座を廃止し、岐阜や安土の城下町で誰でも自由に商工業を行えるように改め(楽市楽座)、そこで得た税金で常備兵を雇うことが可能となった。 | |
| 1580年 | 信長は浄土真宗の拠点である石山本願寺(顕如が指導者)と11年間の戦いの末、屈服に成功する(石山合戦終了)。 | |
| 1581年 | 税を銀で納める一条鞭法が全国で実施される。 | |
| 1582年 | ・信長は明智光秀に襲撃され死亡(本能寺の変)。その知らせを聞いた豊臣秀吉は毛利氏と講和し、京都に引き返して光秀を倒した(中国大返し→山崎の戦い)。 ・キリシタン大名(大友宗麟・有馬晴信・大村純忠)はイタリア人宣教師ヴァリニャーニの勧めにより天正遣欧使節をローマ教皇に派遣した。少年使節には伊東マンショなどがおり、ローマで教皇に謁見し1590年に帰国する。また、ヴァリニャーニは近江安土と肥前有馬にセミナリオ(神学校)や豊後府内にコレジオ(教育者養成所、collegeの語源)を設立する。 |
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| 1583年 | ・秀吉が近江で柴田勝家を倒し、信長の後継者争いに勝つ(賤ヶ岳の戦い)。 ・石山本願寺の跡地に大阪城を築城する。 |
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| 1584年 | ・秀吉は徳川家康と戦い和睦する(小牧長久手の戦い)。 ・ポルトガル人宣教師であるルイス=フロイスは織田信長から布教を許され、「日本史」を著した。 |
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| 1585年 | ・秀吉は大名間の武力による戦いを禁じる惣無事令を出し、これに反発した薩摩の島津義久を、四国の長宗我部元親を平定する。 ・秀吉は朝廷より関白に、翌年には太政大臣に任命される。 |
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| 1587年 | 秀吉は九州平定の際にキリスト教が非常に増えていたため、宣教師を国外に追放した(バテレン追放令)。ただし、南蛮貿易を認めていたため徹底したものではなかった。 | |
| 1588年 | ・秀吉は京都に聚楽第を建設し、天皇を接待する。 ・一揆防止と兵農分離を目的に、農民の武器所有を禁止する刀狩令が出される。 |
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| 1590年 | 小田原攻めで北条氏を滅ぼし、伊達政宗を服従させ全国統一を果たす。 | |
| 1591年 | ・秀吉は升やものさしの基準を統一して太閤検地を実施し、一地一作人+石高制により年貢を納めさせた(荘園制廃止)。 ・兵農分離を進めるため農民の武士への転換を禁止した身分統制令(人掃令)が出された。 |
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| 1592年 | 秀吉は名護屋城で指揮をとり朝鮮侵略を開始するが、李舜臣が率いる朝鮮水軍や明の援軍による反撃によって苦戦する(文禄の役)。 | 万暦帝が朝鮮に援軍を送る。 |
| 1596年 | 暴風雨のため土佐にスペイン船サン・フェリペ号が漂着した。その乗組員が領土拡張のため宣教師を利用していると失言し殺された。その結果、宣教師26人を長崎で処刑する(二十六聖人殉教事件)。 | |
| 1597年 | 再度、名護屋城を起点にして朝鮮侵略を行うが、秀吉が病死し撤退する(慶長の役)。 | |
| 1600年 | ・豊臣家に忠誠を尽くす西軍(石田三成・毛利輝元)とそうでない東軍(徳川家康)が戦い、小早川秀秋が寝返ったことで形成が傾き東軍が勝利する(関ヶ原の戦い)。 ・オランダのリーフデ号が豊後臼杵に漂着し、後に乗務員であるウィリアム=アダムズとヤン=ヨーステンが家康に仕え、外交顧問となる。その結果、肥前平戸に商館を設置し、オランダの東インド会社と交易が開始した。 |
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| 1601年 | 家康は京都所司代を設置し、西日本を監視下にいれた。 |
秀吉の政策
| 太閤検地 | |
| 方法 | 山崎の戦い以降、直接役人を派遣し、順次全国を検地して石高を決定(石高制) |
| 単位 | はかりを京枡に統一 |
| 原則 | 検地帳に耕作農民の田畑と屋敷地を登録する(一地一作人の原則)→荘園制の崩壊 |
| 政治体制 | |
| 収入 | 蔵入地(=直轄地のこと)、重要鉱山の直轄化 |
| 五奉行 | 石田三成、浅野長政、増田長盛、前田玄以、長束正家(政務各分野を分掌) |
| 五大老 | 徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝(重要事項を合議) |
桃山文化
| 特徴 | 新興大名や豪商による豪華で壮大な文化、南蛮文化の影響あり |
| 建築 | 安土城、大坂城、伏見城、姫路城、二条城、聚楽第、妙喜庵茶室 |
| 障壁画 | 濃絵(だみえ):障壁に描かれた金碧濃彩画 |
①「洛中洛外図屏風」狩野永徳![]() |
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②「唐獅子図屏風」狩野永徳![]() |
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| 工芸 | 朝鮮(慶長版本)や西欧(キリシタン版)から活字印刷術が伝えられた |
| 芸能 | 茶道(千利休)、阿国歌舞伎(出雲阿国)、人形浄瑠璃、隆達節(高三隆達) |
江戸時代
| 江戸時代 | 明 | |
| 1603年 | 徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く。幕府と大名が全国の土地や領民を支配する幕藩体制を取った。また、幕府は海外渡航許可の朱印状を発行し貿易を許可した(朱印船貿易)。特に生糸は特定の商人に糸割符仲間を作らせ、価格は幕府が統制した。 | |
| 1604年 | ・道南部に勢力を持っていた松前氏は家康からアイヌとの交易独占権を保証された。 ・マカオから中国産の生糸を日本に持ち込み暴利を上げていたポルトガル人対策として糸割符仲間(長崎・堺・京都・大坂・江戸)に価格を決めさせて一括で購入させる糸割符制度をつくり、銀の流出を抑制した。 ・明とは直接貿易できないため、渡航許可証である朱印状を得た商人は、ルソン(現フィリピン)、アンナン(現ベトナム)、シャム(現タイ)など貿易地で中国商人と会い、主に生糸を輸入し、銀を輸出した(朱印船貿易)。朱印船貿易家として有名な京都の角倉了以は利益を高瀬川の開削など治水事業も行った。また、シャムの首都アユタヤの日本人町の長である山田長政は国王に気に入られた。 |
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| 1605年 | 【2代徳川秀忠が就任】 家康はすぐに息子の秀忠を2代将軍とし、自身は駿河で大御所として政治の実権を握った。 |
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| 1609年 | ・対馬藩の宗氏と李氏朝鮮との間で己酉約条が結ばれ国交が回復した。以後、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使が来日し、御三家並みの待遇を受けた。 ・島津家久が琉球を征服し、以後、琉球から将軍の代替わりごとに慶賀使が来るようになった。 |
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| 1613年 | ・2代秀忠は全国にキリスト教の禁教令を出す。翌年、キリシタン大名の高山右近らがマニラに追放された。 ・伊達政宗は支倉常長が率いる慶長遣欧使節をスペインに派遣して貿易を企てたが失敗に終わった。 |
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| 1615年 | 初代〜3代将軍による武力政治(武断政治) ・2度にわたる大阪の陣で豊臣氏が滅びる。 ・大名を統制する武家諸法度元和令を制定 ・天皇公家を統制する禁中並公家諸法度を制定 ・本城以外を壊す一国一城令を制定 違反した場合は、領地を没収する改易、領地を削減する減封、領地替えする転封の処置がとられた。 |
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| 1616年 | ・徳川家康死去。 ・寄港地を平戸と長崎に制限した。 |
女真族のヌルハチ(太祖)が後金を建国する。 |
| 1623年 | 【3代徳川家光が就任】 イギリスが貿易競争に敗れ平戸商館を閉鎖した。 |
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| 1624年 | 幕府はスペイン船来航を禁止した。 | オランダが台湾の南西部を占領し、ゼーランディア城を築く。 |
| 1627年 | 後水尾天皇が僧に与えた紫衣の勅許を幕府が無効とし、それに反抗した僧の沢庵は流罪となった(紫衣事件)。幕府の優越を示した事件。 | |
| 1630年 | 長崎で踏絵が始まる。 | 明の力が弱まり、反乱が起こる(李自成の乱)。 |
| 1635年 | ・3代徳川家光は武家諸法度を一部改訂した武家諸法度寛永令で、参勤交代を制度化した。 ・日本人の海外渡航および帰国の全面禁止した(鎖国令)。 |
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| 1636年 | 江戸城が完成する。 | |
| 1637年 | 重い年貢とキリシタン弾圧に苦しむ農民が天草四郎時貞を大将にして一揆を起こし、原城に立て篭もった(島原の乱)。鎮圧後、寺請制度を設けて民衆に一家一寺の檀家として所属させた。 | |
| 清 | ||
| 1638年 | 都:北京市 ホンタイジ(太宗)が後金を清に改める。また、女真を満州に改名した。ここから中国東方部を満州と呼ぶようになった。 |
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| 1641年 | ・ポルトガル船の来航禁止し、貿易国はキリスト教布教をしないオランダのみとなり平戸の商館を長崎の出島に移し、鎖国体制が完成した。オランダ館長のカピタンにヨーロッパの情報を定期的に報告させるオランダ風説書を提出させた。 ・池田光政は最初の藩学である花畠教場を開く。 |
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| 1643年 | 土地売却による本百姓体制解体を防止する田畑永代売買の禁止令が出される。 | |
| 1644年 | 李自成軍が北京を占領し、明が滅亡する。清の3代皇帝の順治帝が北京に入城し、李自成は自殺に追い込まれる。辮髪を漢民族男子にも強要する令が出される。 | |
| 1651年 | 【4代徳川家綱が就任】 家光は日光東照宮を建てるなどして幕府の財政が大きく傾いた。家光が亡くなった後、学者の由井正雪は牢人とともに幕府転覆を図ったが阻止された(慶安の変=由井正雪の乱)。これを機に、4代家綱を補佐する保科正之は、大名の改易による牢人の増加を防ぐため死ぬ直前に養子をとる末期養子の禁を緩めた。以後、4代〜7代は徳を重んじる政治に変わった(文治政治)。 |
鄭成功の反清運動が激しくなる。 |
| 1657年 | 明暦の大火が起こり、江戸城も消失。復興費用がかさみ幕府の財政が逼迫した。 | |
| 1661年 | 4代皇帝康熙帝が即位する。鄭成功が台湾で亡くなる。 | |
| 1669年 | 松前氏は家臣に貿易取引場所を家臣に支配させる商場知行制を行うなど松前藩の圧政に抵抗し(シャクシャインの戦い)、最終的には和睦し、その後、場所請負制度に移行した。 | |
| 1670年 | 岡山藩主池田光政は現存する世界最古の庶民のための公立学校である閑谷学校を設立する。 | |
| 1673年 | 分割相続による百姓の零細化を防止する分地制限令が出された。 | |
| 1674年 | 保科正之が設立した稽古堂が、藩校の日新館として開かれる。白虎隊をはじめ、戊辰戦争やその後に活躍する人材を数多く輩出した。 | |
| 1680年 | 【5代徳川綱吉が就任】 学問好きの5代将軍徳川綱吉は柳沢吉保や荻原重秀を登用し、儒学を奨励し湯島聖堂創建、聖堂学問所設立を行った。また朝廷儀式の大嘗祭も再興した。 |
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| 1684年 | 死者が出たら喪に服すよう服忌令を義務付けた。 | |
| 1685年 | 綱吉が生類憐れみの令を出し、武士や民衆の反感を招いた。 | |
| 1689年 | 清が建国され、長崎に唐人屋敷を設置し、貿易を行った。 | 康熙帝はロシアとネルチンスク条約を結び、国境を定めた。 |
| 1695年 | 勘定吟味役の荻原重秀は貨幣の質を落とした元禄小判を鋳造した。その差額で財政を一時回復したが、インフレを招いて経済が混乱した。 | |
| 1702年 | 江戸城の松の廊下で吉良上野介に切りかかった浅野内匠頭の切腹と、47士の討ち入り事件(赤穂事件)、浅野内匠頭と47士の墓は泉岳寺にある。 | |
| 1707年 | 宝永大地震と宝永大噴火が起こる。 | |
| 1709年 | 【6代徳川家宣が就任】 6代・7代将軍の時、新井白石が朝鮮通信使の簡素化など経済の混乱を収めようとした(正徳の治)。また、7代将軍と皇女との婚姻をまとめて閑院宮家を創設し、朝廷との関係を深めた。新井白石はイタリア人宣教師のシドッチを尋問し海外事情を記載した采覧異言や西洋紀聞を著した。また、古代天皇制から江戸幕府成立へ記した歴史書の読史世論を著した。 |
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| 1713年 | 【7代徳川家継が就任】 わずか5歳での将軍就任 |
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| 1715年 | 長崎貿易を制限し、金銀の海外流出を防止しした(海舶互市新例)。 | |
| 1716年 | 【8代徳川吉宗が就任】 紀伊藩出身の8代将軍徳川吉宗は幕府財政を立て直すため享保の改革を行った。 ・町奉行に大岡忠相を登用し、町火消を創設 ・裁判の基準となる公事方御定書を作成 ・幕府は金銭訴訟に関与しない相対済し令を発布 ・目安箱を設置し、小石川養生所を設立 ・参勤交代を半減させ米献上(上米の制) ・人件費の削減(足高の制) ・幕府が株仲間公認し、税金徴収する ・新田開発を推進 |
現在の漢字辞典の元となる康熙字典が完成する。 |
| 1720年 | キリスト教関係以外の書は輸入が緩和された(漢訳洋書輸入制限の緩和)。 | |
| 1722年 | 5代皇帝雍正帝が即位し、皇帝の補佐機関である軍機処を設置する。 | |
| 1732年 | 享保の改革により財政が一時的に回復するも、享保の飢饉が起こり、各地で土一揆や打ちこわしが頻発する。 | |
| 1735年 | 6代皇帝乾隆帝が即位する。 | |
| 1745年 | 【9代徳川家重が就任】 | |
| 1751年 | 清がラサに侵攻し、チベットを保護下に置く。 | |
| 1759年 | 清が東トルキスタンを制圧し、その地域を新疆と名付ける。 | |
| 1760年 | 【10代徳川家治が就任】 | |
| 1772年 | 10代将軍の老中になった田沼意次は農業ではなく商業を重視した政策を行なった。 ・株仲間の結成奨励し、営業税増収を図る ・銀の代わりに銅や俵物の輸出を増加 ・計数貨幣である南鐐二朱銀を鋳造 |
中国のありとあらゆる書物の全巻を1つの全集におさめる事業、四庫全書の編集を始める。 |
| 1774年 | 前野良沢と杉田玄白がターヘル・アナトミアを翻訳して解体新書を書く。この時の翻訳の苦労は玄白の蘭学事始に書いてある。 | |
| 1783年 | ・天明の大噴火(浅間山噴火)と天明の大飢饉が起こったため一揆や打ちこわしが激化する。 ・仙台藩の工藤平助の提言を行い、のちに最上徳内が蝦夷地を探索する。 |
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| 1787年 | 【11代徳川家斉が就任】 11代将軍の老中になった白川藩主の松平定信は再び農業を重視する政策を実施(寛政の改革)。 ・札差からの御家人の借金を帳消し(棄捐令) ・大名に非常用の米を蓄えさせる(囲い米) ・江戸流入民を故郷に帰らせた(旧里帰農令) ・石川島に職業訓練する人足寄場を設置 ・朱子学以外の講義を禁止(寛政異学の禁) ・昌平坂学問所で武士に朱子学を学ばせた |
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| 1792年 | ロシアのラックスマンが根室に来航し、通商を要求した。幕府は長崎への入港証を渡した。 | |
| 1793年 | 改革に失敗した松平定信が失脚して、11代将軍徳川家斉は自ら政治を行なったが、浪費する放漫な政治だった文化は発展したが財政は悪化した(大御所時代)。 | |
| 1800年 | 伊能忠敬が日本全土の測量に出発する。 | |
| 1804年 | ・ロシア使節のレザノフが長崎に来航し、通商を要求するが拒否したためレザノフがブチ切れ。 ・華岡青洲が世界初の全身麻酔に成功。 |
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| 1808年 | ・イギリス軍艦がオランダ船を追って長崎湾に侵入した(フェートン号事件)。 ・間宮林蔵が樺太を探検した。 |
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| 1811年 | 国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンを日本の警備兵が監禁する(ゴローニン事件)。 | |
| 1821年 | 忠敬の死後、大日本沿海輿地全図(よちぜんず)が完成する。 | |
| 1823年 | ドイツ人医師のシーボルトは来日後、長崎に診療所兼用の塾(鳴滝塾)で蘭学を教えた。 | |
| 1825年 | 幕府は中蘭以外の外国船は見つけ次第攻撃する異国船打払令を出した。 | |
| 1828年 | ドイツ人医師シーボルトが日本地図の国外持ち出しを図ったとして国外追放させる(シーボルト事件)。 | |
| 1832年 | 天保の大飢饉が起こる。 | |
| 1837年 | 【12代徳川家慶が就任 老中阿部正弘】 ・天保の大飢饉に対し、無策な幕府に怒った大塩平八郎が大阪で反乱を起こす(大塩の乱)。 ・アメリカ商船モリソン号を浦賀と薩摩で打ち払う(モリソン号事件)。 |
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| 1838年 | 緒方洪庵が大阪大学の前身である適塾を開き、蘭学を教える。 | イギリスがインド経由でアヘンを中国に輸入し、中国人を薬漬けにした。このアヘン貿易を禁止するために林則徐が厳しくアヘン取り締まりの対応にあたる。 |
| 1839年 | モリソン号事件を批判した渡辺崋山・高野長英らが弾圧される(蛮社の獄)。 | |
| 1840年 | アヘンを持ち込んでいるイギリス人居住区を清軍が攻撃したためアヘン戦争が起こる。 | |
| 1841年 | 12代将軍の老中になった浜松藩主の水野忠邦は天保の改革を行った。 ・贅沢を禁止する倹約令(風俗取締令) ・株仲間の解散を命じ、物価引き下げをはかる ・江戸流入民を強制帰村させた(人返し令) ・江戸や大阪周辺を幕府の領地に組み入れる上知令を計画したが、大名が反対し水野忠邦は失脚。 |
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| 1842年 | アヘン戦争を目の当たりにした日本は異国船打払令から対外政策を緩和し、天保の薪水給与令を出す。 | アヘン戦争に負けた清はイギリスと南京条約を結び、香港島の譲渡と自由貿易を約束した。 |
| 1844年 | オランダの国王が徳川家慶に対して諸外国にも開国した方がいいよとすすめたが、幕府は拒否した。 | |
| 1846年 | アメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルが浦賀に来航し通商を要求したが、幕府は拒否した。 | |
| 1851年 | キリスト教徒の洪秀全は清を倒して漢民族による太平天国という国を作る乱を起こす(太平天国の乱)。 | |
| 1853年 | 【13代徳川家定が就任】 ・アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーがフィルモア大統領の国書を持参し浦賀沖に来航、老中の阿部正弘が対応し、翌年に神奈川宿で日米和親条約(神奈川条約)を結び、①下田と箱館の2港を開港(一夜越し:1854の鎖国終了)、②米国に一方的に優遇を与える片務的最恵国待遇の付与を行なった。これを機に、幕府は函館に箱館奉行所として五稜郭をつくった。 ・佐賀藩主の鍋島直正は築地反射炉を完成させた。 |
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| 1854年 | ・ロシアのプチャーチンが長崎に来航し、日露和親条約を結び、①下田、箱館、長崎の3港の開港、②国境画定を行った(日本は択捉島以南、樺太は雑居地として境界を定めない)。 ・イギリスも同様に日英和親条約を結んだ。イギリスは幕末の貿易で中心的な取引相手国となった。 |
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| 1856年 | ・老中阿部正弘は安政の改革として、①江川英龍を登用し、②国防充実のために品川沖に6つの台場つくらせた(跡地は現在、お台場公園としてフジテレビなどがあり、また、大砲を作るため韮山反射炉の建設に着手)、③大船建造の禁止を解くなど幕府と諸藩がこれら一連の改革を行った。 ・下田のアメリカ総領事にハリスが就任し、英仏の脅威を説き日米修好通商条約(横浜・長崎→新潟・神戸の4港開港)を求めたが、老中の堀田正睦(まさよし)は勅許が得られないため拒否した。 ・砂糖の専売制で利益を上げていた薩摩藩は、藩主島津斉彬の時、集成館の反射炉を完成させた。 |
広州湾にて、英国船アロー号に対して清が英国国旗を降ろさせた。これに英国が抗議し、英仏連合軍が清を攻撃する(アロー戦争=第二次アヘン戦争)。 |
| 1857年 | ・徳川斉昭が藩校の弘道館を開く。 ・江川英竜が韮山反射炉をつくる。 |
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| 1858年 | 【14代徳川家茂が就任 大老井伊直弼が就任】 大老の井伊直弼は日米修好通商条約を断行した。この条約は日本に関税自主権がなく、アメリカに領事裁判権(治外法権)を認める不平等条約であった。幕府は続いて蘭・英・仏・露(アオイフロ)とも不平等条約を結ぶ(安政の五カ国条約)。輸出の中心は生糸で、中心の港は横浜となった。 しかし、孝明天皇の勅許を得ないまま条約を結んだため天皇を敬い外国人を排斥する尊王攘夷運動(天皇中心+外国人排斥)が盛んになる。幕府の対外政策を批判した長州藩松下村塾の吉田松陰ら100名以上が処罰された(安政の大獄)。 |
清は天津港で停戦協定を結びにきた英仏艦隊を攻撃し、それに激怒した英仏艦隊は北京まで侵攻した。清はロシアに仲介を依頼し、九龍半島の譲渡、アヘン貿易の公認、さらにロシアにウラジオストク沿岸州を譲渡した(北京条約)。 |
| 1860年 | 【14代:老中安藤信正が就任】 ・安政の大獄に反発した水戸藩の元藩士らが井伊直弼を暗殺する(桜田門外の変)。 ・幕府は江戸の問屋を保護を図るため、在郷商人が特定の物資の流通を横浜などの港へ直送するのではなく、江戸経由で行う五品江戸廻送令を出したが効果はあがらなかった。 ・幕府は金銀比価の違いによる金の流出を防ぐため金の含有量を1/3にする万延貨幣改鋳(まんえんかへいかいちゅう)を行ったが、貨幣価値が下がりインフレが生じたため、貿易に対する反感から攘夷運動に結びついた。 |
近代化を進める洋務運動が活発になる。 |
| 1862年 | ・公武合体(孝明天皇の妹である和宮と14代家茂の結婚)を推進する老中安藤信正が降嫁(こうか)に反対する水戸脱藩士に襲われ、老中を退く(坂下門外の変)。 ・薩摩藩主の父である島津久光は様々な幕政改革の実行を行い(文久の改革)、松平慶永(よしなが)は幕政を統括する政事総裁職に、徳川慶喜は将軍を補佐する将軍後見職、松平容保(たかもり)は京都の治安を維持する京都守護職に任命された。松平容保の配下として新撰組の近藤勇や土方歳三が京都警備にあたった。 |
曾国藩と李鴻章の義勇軍、米英からなる常勝軍は太平天国の軍を破る。 |
| 1863年 | ・文久の改革を行なった島津久光が薩摩へ戻る際、横浜市鶴見区生麦付近でイギリス人が大名行列で馬から下りなかったため殺害された(生麦事件)。その後、イギリス艦隊から報復攻撃を受け薩摩藩が敗れて講和する(一発で無惨1863:薩英戦争)。その結果、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通は攘夷を断念し、開国政策に転換した。 ・徳川家茂は上洛し、攘夷決行の勅命を受けた。長州藩は攘夷運動を実行するため米仏蘭船を攻撃した(長州藩外国船砲撃事件)。 ・薩摩藩と会津藩を中心とした公武合体派は尊王攘夷派である長州藩と公家の三条実美(さねとみ)を京都から追放する政変が起こった(8月18日の政変)。 |
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| 1864年 | ・新撰組の近藤勇らは尊王攘夷派の長州藩の浪士を殺害する(池田屋事件)。この報復に長州藩が京都にいる薩摩藩や会津藩と交戦するも敗走する(禁門の変)。 ・幕府軍は長州藩を罰するため出兵する(第一次長州出兵)。 ・長州藩は前年、攘夷のため下関で外国戦を砲撃した。その報復に欧米4カ国の艦隊からの攻撃(四国連合艦隊下関砲撃事件)が第一次長州出兵と重なり幕府に従う態度を取ると同時に、外国との戦闘で長州藩も攘夷を断念する。 |
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| 1865年 | ・第一次長州出兵後に誕生した長州藩の倒幕派中心人物である高杉晋作は奇兵隊を組織する。 ・土佐藩の坂本龍馬は長崎で海援隊という商社を設立し、武器や軍艦を購入した。 |
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| 1866年 | 【15代徳川慶喜が就任】 土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎の仲立ちで薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が密談し薩長同盟が結ばれる。倒幕派に対して、幕府軍は第二次長州征伐を行うも敗れる。 |
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| 1867年 | ・土佐藩のすすめに従い、15代将軍徳川慶喜が二条城で政権を朝廷に返す大政奉還を申し出た。 ・公家の岩倉具視(ともみ)と結んだ薩長両藩は徳川家を完全に排除するため、徳川家抜きの新政府樹立宣言である王政復古の大号令を天皇が出した(江戸幕府滅亡)。滅亡により総裁・議定・参与の三職が置かれ、小御所会議(こごしょかいぎ)で徳川慶喜の辞官納地が決定した。 ・この頃から京阪地方を中心に伊勢神宮などのお札が降ったとして大衆乱舞が起こった(ええじゃないか)。 |
江戸幕府の政治体制
| 将軍 | 幕府のトップ、側近として側用人を置いた |
| 大老 | 非常時に老中の上に1人だけ置く最高職(普段いない時が多い) |
| 老中 | 政務を統括する最高職 |
| 若年寄 | 老中の補佐、譜代大名から任命される |
| 大目付 | 老中の下で大名を監視する |
| 勘定奉行 | 老中の下で幕府の財政や郡代・代官(天領の役人)を管理する |
| 町奉行 | 江戸の町政を行う |
| 三奉行 | 寺社奉行、町奉行、勘定奉行の3つ総称 |
| 遠国奉行 | 重要な都市の支配 |
| 京都所司代 | 朝廷と西日本の大名の監視 |
| 大阪城代 | 西日本の軍事を担当 |
| 大名 | 大名:幕府から1万石以上の藩を与えられた武士 ①親藩:徳川一門(特に徳川分家の紀伊藩・水戸藩・尾張藩=御三家という) ※君とは終わり:紀伊藩・水戸藩・尾張藩 ②譜代:関ヶ原の前より家臣 ③外様:関ヶ原の戦い以降の家臣 |
| 藩士 | 大名の家臣。藩士は大名から藩の蔵入地の年貢を支給された(俸禄制度)。 |
| 旗本 | 直接将軍に会うことができる1万石未満の武士(直参) |
| 御家人 | 直接将軍に会うことができない1万石未満の武士(直参) |
江戸幕府の歴代将軍
| 初代 | 家康(いえやす) | 江戸幕府 |
| 2代 | 秀忠(ひでただ) | キリスト教の禁教令、一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度 |
| 3代 | 家光(いえみつ) | 武家諸法度改正・参勤交代 |
| 4代 | 家綱(いえつな) | 病弱、文治政治開始、保科正之が補佐、末期養子の禁止緩和 |
| 5代 | 綱吉(つなよし) | 柳沢吉保を重用、生類憐みの令、湯島聖堂設立、元禄小判、 |
| 6代 | 家宣(いえのぶ) | 新井白石による「正徳の治」、閑院宮家を創設 |
| 7代 | 家継(いえつぐ) | 新井白石による「正徳の治」、海舶互市新例 |
| 8代 | 吉宗(よしむね) | 享保の改革 |
| 9代 | 家重(いえしげ) | 特になし |
| 10代 | 家治(いえはる) | 田沼意次による改革 |
| 11代 | 家斉(いえなり) | 松平定信の「寛政の改革」 |
| 12代 | 家慶(いえよし) | 水野忠邦の「天保の改革」、ペリーの浦賀来航 |
| 13代 | 家定(いえさだ) | ペリー来航直後に将軍になったが、生来病弱で子供がいなかったため将軍継嗣問題が生じる。 |
| 14代 | 家茂(いえもち) | 彦根藩主の井伊直弼らを中心に南紀派の推薦で紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)が将軍となったが、幼少のため大老・井伊直弼が幕政を動かす。 |
| 15代 | 慶喜(よしのぶ) | 越前藩主の松平慶永らを中心に一橋派の推薦があったが、家茂に将軍を取られた。家茂の死去後に15代将軍になるも大政奉還し、江戸城を明け渡す。 |
江戸時代の経済
| 鉱業 | ①佐渡相川金山、②但馬生野銀山、③石見大森銀山、④足尾銅山、⑤別子銅山 |
| 農業 | 商品作物の栽培:四木・三草・綿・たばこ・野菜 |
| 農業の進展:備中鍬、千歯扱、唐箕、千石通し、踏車、金肥 | |
| 手工業 | 江戸初期は農村家内工業→中期は問屋制家内工業(問屋が材料道具を提供+完成品を買い取る方法)→後期は工場制手工業(工場で分業・協業して作る方法) |
| 名産品 | 織物:西陣織、桐生絹、河内木綿、奈良晒など 陶磁器:有田焼、京焼、九谷焼、瀬戸焼、備前焼など 醸造:伏見・灘の酒、野田・銚子の醤油 |
| 陸上交通 | 五街道(東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中)、脇街道(五街道以外)、一里塚(約4km毎の標識)、関所(入鉄炮に出女)、飛脚、宿場(街道の休憩所) |
| 宿場 | 問屋場(宿場の事務所)、本陣(大名宿)、旅籠屋(一般用宿) |
| 海上交通 | ①東廻り航路(酒田→江戸):伊勢商人の河村瑞賢が整備 ②西廻り航路(酒田→大坂):同上、北前船を利用 ③南海路(大坂←→江戸):大型船を菱垣廻船、小型船を樽廻船という ④北前船(大坂←→松前) |
| 三都 | 江戸(十組問屋):日本橋の魚市場、神田の青物市場 大坂(二十四組問屋):堂島の米市場、雑喉場の魚市場、天満の青物市場 京都:呉服屋、両替商、西陣織などの手工業 |
| 物流 | 年貢→大名→蔵屋敷(大名の倉庫)→問屋→小売→市民 |
| 蔵物:蔵屋敷を経由した米 | |
| 納屋物:蔵屋敷を経由していない米 | |
| 蔵元:蔵屋敷で蔵物を取引する人、掛屋:蔵屋敷でお金を扱う人 | |
| 札差:旗本・御家人が給与として得た年貢を現金に換金する人、高利貸も兼ねる | |
| 貨幣制度 | ①金:金座で鋳造、主に江戸で流通、小判を数えて使う(計数貨幣) |
| ②銀:銀座で鋳造、主に大坂で流通、量って使用されていた(秤量貨幣) | |
| ③銭:銅座で鋳造、全国で流通、寛永通宝を数えて使う(計数貨幣) | |
| 豪商 | 江戸:三井家(三井高利の越後屋から発展)、紀伊國屋(材木で巨利を得る) |
| 大坂:鴻池家(十人両替の1つ、大名貸しで成長)、住友家(別子銅山を経営) |
寛永期の文化(江戸初期の文化)
| 建築 | 権現造:霊廟建築様式の1つ |
| 日光東照宮 | |
| 数寄屋造:書院造に草庵風の茶室を取り入れた建築様式 | |
| 桂離宮 | |
| 修学院離宮 | |
| 絵画 | 「大徳寺方丈襖絵」狩野探幽(狩野永徳の孫)![]() |
「風神雷神図屏風」俵屋宗達![]() |
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| 工芸 | 酒井田柿右衛門(赤絵の完成) |
元禄文化
| 特徴 | 文治政治あたりの京都大坂の上方豪商を中心とした町人文化 |
| 絵画 | 「紅白梅図屏風」尾形光琳![]() |
「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)」尾形光琳![]() |
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肉筆の浮世絵「見返り美人図」菱川師宣![]() |
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| 工芸 | 宮崎友禅が友禅染を始める |
| 文学 | 浮世草子の作家井原西鶴:「好色一代男」など |
| 俳諧の作家松尾芭蕉:「奥の細道」 | |
| 人形浄瑠璃・歌舞伎作家近松門左衛門:「国姓爺合戦」→鄭成功の物語 | |
| 芸能 | 野郎歌舞伎:初代市川團十郎(江戸)、坂田藤十郎(上方) |
化政文化
| 特徴 | 江戸中心の町人文化 |
| 絵画 | 浮世絵「市川鰕蔵」東洲斎写楽![]() |
版画の浮世絵「ポッピンを吹く娘」喜多川歌麿![]() |
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版画の浮世絵「富嶽三十六景」葛飾北斎![]() |
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版画の浮世絵「東海道五十三次」歌川広重![]() |
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| 生活 | お蔭参り:約60周年期で伊勢神宮へ集団参詣がブームに |
| 文学 | 滑稽本「東海道中膝栗毛」十返舎一九 |
| 滑稽本「浮世風呂」「浮世床」式亭三馬 | |
| 読本「南総里見八犬伝」曲亭馬琴 | |
| 俳諧の作家与謝蕪村「」 | |
| 俳諧の作家小林一茶「」 |
江戸時代の学問
| 国学 | 復古主義の傾向から古事記や日本書紀などの研究を進めていく学問 |
| 幕府の歌学方である北村季吟(きぎん):源氏物語を研究、国学の基礎をつくる | |
| 荷田春満(かだのあずままろ):京都伏見の神官、国学の学校創設を試みる | |
| 賀茂真淵:田安家に仕え、復古思想を主張 | |
| 本居宣長:伊勢松坂の医者、復古神道を主張、「古事記伝」を著す | |
| 平田篤胤(あつたね):復古神道を大成 | |
| 薬学 | 貝原益軒:「大和本草」を著す |
| 史学 | 徳川光圀が始めた水戸家編纂の史書「大日本史」 |
| 蘭学 | 新井白石:「采覧異言」イタリア宣教師シドッチを尋問してまとめた |
| 前野良沢・杉田玄白:ターヘル=アナトミアを翻訳した「解体新書」を著す | |
| 大槻玄沢:蘭学入門書の「蘭学階梯」を著す、江戸に芝蘭堂を開く | |
| 緒方洪庵:大坂に蘭学塾である適塾を開く、門人に福沢諭吉などがいる | |
| シーボルト:ドイツ人、長崎に鳴滝塾を開き、医学などを教える | |
| 天文学 | 伊能忠敬:「大日本沿海輿地全図」を作成 |
| 理学 | 平賀源内:寒暖計やエレキテル(摩擦起電機)を作成 |
江戸時代の儒学
| 朱子学 | 身分の上下関係を重視(江戸幕府採用) |
| 1790年寛政異学の禁:朱子学以外を異学として聖堂学問所での教授を禁止 | |
| 弘文館(私塾)→聖堂学問所(私塾)→昌平坂学問所(幕府直轄) | |
| 京学 | ①藤原惺窩(せいか):近世儒学の祖、家康に講義 |
| ②林羅山:林家の祖、武家諸法度寛永令を起草、弘文館を上野忍ヶ岡に開設 | |
| ③林信篤:綱吉に聖堂学問所の大学頭に任じられた | |
| ④木下順庵:新井白石の師、綱吉に講義 | |
| ⑤新井白石:家宣に講義、「読史余論」:公家→武家政権への推移を記した歴史書 | |
| ⑥貝原益軒:朱子学の本も書いた | |
| 南学 | ①山崎闇斎:垂加神道を創始、保科正之に仕えた |
| 陽明学 | 上下関係は問わず誰とでも懇ろに親しむことを重視 |
| ①中江藤樹:藤樹書院を開く | |
| ②熊沢蕃山:池田光政に仕え、「大学或問」で幕府を批判し古河に幽閉される | |
| 古学 | 中国の古典(孔子・孟子)に直接学ぶ原点回帰 |
| 聖学 | ①山鹿素行:「聖教要録」で朱子学を批判した |
| 堀川学派 | ①伊藤仁斎:京都に古義堂を開く |
| 古文辞学派 | ①荻生徂徠(おぎゅうそらい):茅場町に蘐園塾を開き、「政談」を著す |
| ②太宰春台:「経済録」を著す | |
| 折衷学 | 各学派を折衷したもの |
| ①広瀬淡窓:豊後日田に咸宜園を開く | |
| 心学 | 儒・仏・神の教えを取り入れた平易な庶民的な学問 |
| ①石田梅岩:心学の祖 | |
| 水戸学 | 水戸藩の「大日本史」編纂事業を中心におこった学派 |
| ①朱舜水:明から日本に亡命し、光圀に招かれた | |
| 経世思想 | 政治経済論 |
| ①安藤昌益:八戸の医者、「自然真営道」を著す | |
| ②工藤平助:仙台藩の医者、「赤蝦夷風説考」を著す | |
| ③林子平:「海国兵談」でロシアの南下を警告 |













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