鎌倉時代
鎌倉時代 (1192年) |
源頼朝は征夷大将軍に任命された。鎌倉に拠点を置き、中央に侍所(御家人の統率)・政所(一般政務)・問注所(裁判)を、地方に六波羅探題、守護、地頭を設置した。将軍と御家人は御恩(地頭に任命)と奉公(軍役)の封建制度によって成立していた。 | ||
1202年 | 頼朝の死後、源頼家が2代将軍となるが、北条時政によって伊豆修繕寺に幽閉され、後に暗殺される。頼朝はいつどこで死んだかは不明。 | ||
1205年 | 後鳥羽上皇の命により新古今和歌集がつくられる。 | ||
1206年 | テムジンがモンゴルを統一し、チンギスハンと名乗る。 | ||
1212年 | 鴨長明が方丈記を書く。 | ||
1219年 | 頼朝の妻の北条政子の父である北条時政は源実朝を3代将軍に立て、政治を補佐する執権により実権を握り、以後北条氏が執権を継承する。 | ||
1220年 | チンギスハンがイランのホラズム朝を滅ぼす。 | ||
1221年 | 源実朝が源頼家の息子である公暁に暗殺されたことを契機に、京都の後鳥羽上皇が実権を取り戻そうと挙兵するが、北条政子(尼将軍)に敗北し隠岐に流される(承久の乱)。幕府は京都に六波羅探題を設置し西日本を監視した。以後、源氏の代わりに京の貴族(藤原氏)が鎌倉に招かれて摂家将軍となった。 | ||
1227年 | チンギスハンが西夏を滅ぼす。しかし、その遠征中に病死する。 | ||
1232年 | 3代執権の北条泰時は連署(執権の補佐役)と評定衆(有力御家人11人)をつくり合議制による政治を始めた。また、武家による初めての法律である御成敗式目(貞永式目:じょうえい式目)制定した。(ただし、対象は武士のみ) | チンギスハンの死後、モンゴル帝国は①中国の元、②中央アジアのチャガタイハン国、③西アジアのイルハン国、④ロシアのキプチャクハン国に分離する。(分裂したのではない!) | |
1234年 | 3男のオゴタイハンが金を滅ぼし、ウランバートル(旧カラコルム)をモンゴル帝国の首都にする。 | ||
1252年 | フビライが雲南と大理国を滅ぼす。 | ||
1271年 | 元 | 都:北京市(大都) フビライ・ハンが南宋を滅して建国する。 |
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1274年 | 文永の役(第1回蒙古襲来)。元+高麗の連合軍3万人が攻めてくる。元軍は対馬・壱岐を攻撃→博多に上陸。日本側は元軍のてつはうに苦戦。元寇撤退後、幕府は九州の御家人が果たしていた異国警護番役を強化し、博多湾に防塁を築く。 | チンギスの孫であるフビライ・ハンは日本に服属を求めるが8代執権北条時宗にシカトされたため日本侵略を決定。 | |
1275年 | 2代執権北条実時は和漢の書を集め、金沢文庫を建てた。 | マルコポーロが大都にきてフビライハンに仕える。 | |
1281年 | 弘安の役(第2回蒙古襲来)。元+高麗の連合軍14万人が攻めてくる。 | 2度の暴風雨により日本撤退。 | |
1287年 | 元寇以降、執権政治の合議制を廃止し、北条氏による専制政治に戻した(得宗専制政治という)。 | 元はチベット仏教にハマり豪華な寺院を建てたため財政が悪化し、紙幣(交鈔)を大量発行した。その結果、インフレが起こり経済が混乱する。 | |
1297年 | 元寇撃退に成功したが、御家人の借金も増えた。この借金を帳消しにする永仁の徳政令が発布されるが幕府は衰退していく。 | ||
1332年 | 幕府に従わない御家人を束ねていた悪党の楠木正成を利用して後醍醐天皇が2回の倒幕を試みるが失敗し、隠岐に流される。 | ||
1333年 | 後醍醐天皇は隠岐を脱出し、足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とし再度倒幕が成功し鎌倉幕府が滅びる。 | ||
1334年 | 後醍醐天皇は天皇中心とする親政(建武の新政)を行うが、公家を重視したため武士の反発を招き新政は失敗する。 | ||
1351年 | 元に支配されていた漢民族は、朱元璋をトップに反乱を起こす(紅巾の乱)。 | ||
室町時代 (1336年) |
南朝と北朝に分かれる時代=南北朝時代 足利尊氏は新田義貞や楠木正成を倒した後、京都に持統院統の光明天皇をたて北朝を開き、京を追われた大覚寺統の後醍醐天皇は吉野に南朝を開いた。(南北朝時代の内乱を書いた太平記がある。) |
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1338年 | 足利尊氏が征夷大将軍に任命され、建武式目という政治方針を出して室町幕府を開く。 | ||
1350年 | 北朝で観応の擾乱という内紛が起こる。 | ||
1368年 | 明 | 都:江蘇省南京市(応天府) 朱元璋が大都を攻め落とし元を滅ぼした後、洪武帝と名乗った。 |
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1378年 | 3代将軍足利義満が室町に花の御所を建てる。将軍補佐役として執権の代わりに管領が置かれ、有力な守護大名の斯波・細川・畠山(三管領)が交代で任命された。また、御家人を統率する所司には京極・山名・赤松・一色(京都の山は赤一色)が任命された。鎌倉では足利氏が鎌倉公方として関東を支配し、上杉氏が補佐役の関東管領を行った。 | ||
1392年 | 足利義満が南朝を合一し南北朝時代が終わる。 | 李成桂が高麗を滅ぼし朝鮮を建国 | |
1397年 | 義満が金閣を造営する。 | ||
1402年 | 燕王朱棣が応天府を攻め落とし3代皇帝永楽帝を名乗る。 | ||
1404年 | 義満は明に朝貢して日明貿易を始める(倭寇と区別するため勘合を使用)。明からは銅銭(永楽通宝)や生糸が輸入された。 ※応仁の乱の後は幕府に代わり堺商人+細川氏や博多商人+大内氏が貿易する。 |
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1405年 | 永楽帝が宦官でイスラム教徒の鄭和に命じて大艦隊を南海諸国に送る。 | ||
1421年 | 北京に遷都し、紫禁城をつくる。 | ||
1428年 | 正長の徳政一揆が起こる。 足利義持は朝貢を屈辱とし日明貿易を廃止する。 |
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1429年 | 中山王の尚巴志が琉球を統一し琉球王国をつくる。 | ||
1441年 | 6代将軍足利義教は強権的であったため暗殺され(嘉吉の変)、幕府の権力が衰退した。 | ||
1457年 | アイヌ人が日本人からの扱いに不満を持ちコシャマインの戦いを起こす。 | ||
1467年 | 8代将軍足利義政の後継者問題によって守護大名を巻き込んだ11年も続く応仁の乱が起こり、京都は荒廃して人々は地方に移った。この戦いが戦国時代の幕開けとなる。この時、雪舟や宗祇などの文化人は山口の大内氏を頼り移住したため京文化が栄えた。 | ||
1485年 | 山城の国一揆が起こる。 | ||
1488年 | 蓮如の布教活動によって浄土真宗を信仰する農民が増えた。加賀の農民が守護の冨樫政親を追い出した(加賀の一向一揆)。 | ||
1523年 | 貿易の実権をめぐって、中国の寧波で堺商人+細川氏と博多商人+大内氏が衝突し(寧波の乱)、勝利した大内氏が貿易を独占する。 |
近世
スペイン・ポルトガルの大航海時代が始まり、両国ともカトリック教国であるため進出先で布教活動も行う。アジアの布教活動に注力したのがイエズス会(邪蘇会)。 | |||
1543年 | 種子島に遭難したポルトガル人が鉄砲を伝える。その後、鉄砲は和泉の堺、近江の国友、紀伊の根来などで大量生産される。 | ||
1549年 | キリスト教が日本に伝来。スペインから来たイエズス会宣教師ザビエルは鹿児島に上陸した後、平戸→博多→山口→堺→京都→山口→大分でキリスト教の布教をした。 | ||
1555年 | 毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢(大内義隆を倒した武将)を滅ぼし中国地方の領土を拡大していった。 | ||
1560年 | 尾張の織田信長が駿河の今川義元に勝利する(桶狭間の戦い)。 | ||
1564年 | 上杉謙信と武田信玄は川中島の戦いで5回戦うが決着がつかなかった。 | ||
1567年 | 信長は美濃の斎藤氏を滅ぼし岐阜城に移る。 | ||
安土桃山 時代 (1568年) |
信長は京を追われていた足利義昭を15代将軍に立て入京する。 | ||
1570年 | 浅井長政や朝倉義景らを味方につけた足利義昭は信長に敗れる(姉川の戦い)。 | ||
1571年 | 信長は延暦寺焼き打ちにし、強大な宗教勢力を屈服させた。 | ||
1572年 | 14代皇帝万暦帝が即位し、補佐役に張居正が任命される。 | ||
1573年 | 信長は義昭を京都から追放し、室町幕府が滅びる。武田信玄は三方ヶ原で徳川家康に勝利するが間も無く病死する。 | ||
1575年 | 鉄砲隊を組織した信長は武田勝頼を破り(長篠の戦い)、翌年琵琶湖湖畔に安土城をつくった。信長は岐阜や安土の城下町で誰でも自由に商工業を行えるように改め(楽市楽座)、そこで得た税金で常備兵を雇うことが可能となった。 | ||
1580年 | 信長は浄土真宗の拠点である石山本願寺(顕如が指導者)と11年間の戦いの末、屈服に成功する(石山合戦)。 | ||
1581年 | 税を銀で納める一条鞭法が全国で実施される。 | ||
1582年 | 信長は明智光秀に襲撃され死亡(本能寺の変)。その知らせを聞いた豊臣秀吉は毛利氏との戦いをやめ、京都に引き返して光秀を倒した(中国大返し→山崎の戦い)。 キリシタン大名(大友宗麟・有馬晴信・大村純忠)はイタリア人宣教師ヴァリニャーニの勧めにより天正遣欧使節をローマ教皇に派遣した。少年使節には伊東マンショなどがいた。また、ヴァリニャーニは近江安土と肥前有馬にセミナリオ(神学校)や豊後府内にコレジオ(教育者養成所)を設立する。 |
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1583年 | 秀吉が柴田勝家を倒し、信長の後継者争いに勝つ(賤ヶ岳の戦い)。 | ||
1584年 | 秀吉は徳川家康と戦い和睦する(小牧長久手の戦い)。 ポルトガルやスペインとの貿易が盛んになる(南蛮貿易)。中継貿易のため中国産の生糸、鉄砲、火薬が輸入され、銀を輸出した。 |
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1585年 | 秀吉は大名間の武力による戦いを禁じる惣無事令を出し、これに反発した薩摩の島津義久を屈服させた。長宗我部元親と戦い四国を平定する。朝廷より関白に、翌年には太政大臣に任命される。 | ||
1587年 | 秀吉は宣教師を国外に追放した(バテレン追放令)。ただし、南蛮貿易を認めていたため徹底したものではなかった。 | ||
1588年 | 秀吉は京都に聚楽第を建設し、天皇を接待する。石山本願寺跡地に大阪城を完成させる。 | ||
1590年 | 小田原攻めで北条氏を滅ぼし、伊達政宗を服従させ全国統一を果たす。 | ||
1591年 | 秀吉は升やものさしの基準を統一して太閤検地を実施し、一地一作人+石高制により年貢を納めさせた(荘園制廃止)。また、刀狩令や身分統制令(人掃令)を出し、兵農分離を進めた。 | ||
1592年 | 秀吉が朝鮮侵略を開始するが、李舜臣が率いる朝鮮水軍や明の援軍による反撃によって苦戦する(文禄の役)。 | 万暦帝が朝鮮に援軍を送る。 | |
1596年 | 暴風雨のため土佐にスペイン船サン・フェリペ号が漂着した。その乗組員が領土拡張のため宣教師を利用していると失言し殺された。 | ||
1597年 | 再度、名護屋城を起点にして朝鮮侵略を行うが、秀吉が病死し撤退する(慶長の役)。 | ||
1600年 | 豊臣家に忠誠を尽くす西軍(石田三成・毛利輝元)とそうでない東軍(徳川家康)が戦い、小早川秀秋が寝返ったことで形成が傾き東軍が勝利する(関ヶ原の戦い)。 | ||
1601年 | 家康は京都所司代を設置し、西日本を監視下にいれた。 | ||
江戸時代 (1603年) |
徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く。家康はすぐに息子の秀忠を2代将軍とし、自身は駿河で大御所として政治の実権を握った。幕府と大名が全国の土地や領民を支配する幕藩体制を取った。また、幕府は海外渡航許可の朱印状を発行し貿易を許可した(朱印船貿易)。特に生糸は特定の商人に糸割符仲間を作らせ、価格は幕府が統制した。 | ||
1604年 | 道南部に勢力を持っていた松前氏は家康からアイヌとの交易独占権を保証された。 | ||
1609年 | 対馬藩の宗氏と李氏朝鮮との間で己酉条約が結ばれ国交が回復した。以後、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使が来日し、御三家並みの待遇を受けた。 | ||
1613年 | 2代秀忠は全国にキリスト教の禁教令を出す。翌年、キリシタン大名の高山右近がマニラに追放された。 伊達政宗は支倉常長(はせくらつねなが)が率いる慶長遣欧使節をスペインに派遣して貿易を企てた。 |
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1615年 | 2度にわたる大阪の陣で豊臣氏が滅びる。2代秀忠は武家諸法度(大名を統制)、禁中並公家諸法度(天皇や公家を統制)、一国一城令が制定される。違反した場合は、領地を没収する改易、領地を削減する減封、領地替えする転封の処置がとられた。初代〜3代将軍は武力による政治を行なった(武断政治)。 | ||
1616年 | 徳川家康死去。 | 女真族のヌルハチ(太祖)が後金を建国する。 | |
1623年 | 1600年にオランダ船リーフデ号が豊後臼杵に漂着。オランダ人航海士のヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムスは徳川家康に江戸に招かれ外交貿易の顧問となる。これを機に平戸に商館が設置されオランダ(東インド会社)と交易が開始した。 | ||
1624年 | オランダが台湾の南西部を占領し、ゼーランディア城を築く。 | ||
1629年 | 後水尾天皇が僧に与えた紫衣の勅許を幕府が無効とし、それに反抗した僧の沢庵は流罪となった(紫衣事件)。幕府の優越を示した事件。 | ||
1630年 | 長崎で踏絵が始まる。 | 明の力が弱まり、反乱が起こる(李自成の乱)。 | |
1635年 | 3代徳川家光は武家諸法度を一部改訂し、参勤交代を制度化した。また、外国船の入港地を平戸と長崎に制限し、日本人の帰国や海外渡航も禁止した。 | ||
1636年 | 江戸城が完成する。 | ||
1637年 | 重い年貢とキリシタン弾圧に苦しむ農民が天草四郎時貞を大将にして一揆を起こし、原城に立て篭もった(島原・天草一揆)。鎮圧後、寺請制度を設けて民衆に一家一寺の檀家として所属させた。 | ||
1638年 | 清 | 都:北京市 ホンタイジ(太宗)が後金を清に改める。また、女真を満州に改名した。ここから中国東方部を満州と呼ぶようになった。 |
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1641年 | 貿易国はキリスト教布教をしないオランダのみとなり平戸の商館を長崎の出島に移し、鎖国体制が完成した。オランダ館長のカピタンにヨーロッパの情報を定期的に報告させるオランダ風説書を提出させた。 | ||
1644年 | 李自成軍が北京を占領し、明が滅亡する。清の3代皇帝の順治帝が北京に入城し、李自成は自殺に追い込まれる。辮髪を漢民族男子にも強要する令が出される。 | ||
1651年 | 家光は日光東照宮を建てるなどして幕府の財政が大きく傾いた。家光が亡くなった後、由井正雪は牢人とともに幕府転覆を図ったが阻止された(慶安事件=由井正雪の乱)。これを機に、4代家綱を補佐する保科正之は、大名の改易による牢人の増加を防ぐため末期養子の禁を緩めた。4代〜7代は徳を重んじる政治に変わった(文治政治)。 | 鄭成功の反清運動が激しくなる。 | |
1657年 | 学問好きの5代将軍徳川綱吉は柳沢吉保や荻原重秀を登用し、儒学を奨励し湯島聖堂をつくった。また大嘗祭も再興した。 明暦の大火が起こり、江戸城も消失。復興費用がかさみ幕府の財政が逼迫した。 |
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1661年 | 4代皇帝康熙帝が即位する。鄭成功が台湾で亡くなる。 | ||
1685年 | 綱吉が生類憐れみの令を出し、武士や民衆の反感を招いた。また、死者が出たら喪に服すよう義務付けた(服忌令)。 | ||
1688年 | 清との貿易のため、長崎に中国人居住地の唐人屋敷もつくった。その他、朝鮮通信使とは対馬の宗氏、琉球とは薩摩の島津氏、蝦夷地とは松前が窓口となって交易を行った。 | ||
1689年 | 康熙帝はロシアとネルチンスク条約を結び、国境を定めた。 | ||
1702年 | 江戸城の松の廊下で吉良上野介に切りかかった浅野内匠頭の切腹と、47士の討ち入り事件(赤穂事件)浅野内匠頭と47士の墓は泉岳寺にある。 | ||
1707年 | 宝永大地震と宝永大噴火が起こる。 | ||
1709年 | 6代・7代将軍の時、新井白石が経済の混乱を収めようとした(正徳の治)。また、7代将軍と皇女との婚姻をまとめて閑院宮家を創設し、朝廷との関係を深めた。 新井白石はイタリア人宣教師のシドッチを尋問し海外事情を記載した采覧異言や西洋紀聞を著した。また、古代天皇制から江戸幕府成立へ記した歴史書の読史世論を著した。 |
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1716年 | 8代〜12代は幕府財政を立て直す年貢増徴政策と緊縮財政を行なった。 8代将軍徳川吉宗は質素倹約を命じ、新田開発を進めた。また、参勤交代を軽減する代わりに米を多く上納させた(上げ米の制)。裁判の基準となる公事方御定書をつくった。庶民の意見を取り入れるため目安箱を設置し、それをもとに小石川養生所をつくった。町奉行に大岡忠相を登用し、町火消が創設された。青木昆陽を登用し、救荒用のサツマイモを普及させた。これらの一連の改革を享保の改革という。 |
現在の漢字辞典の元となる康熙字典が完成する。 | |
1722年 | 5代皇帝雍正帝が即位し、皇帝の補佐機関である軍機処を設置する。 | ||
1732年 | 享保の飢饉が起こり、各地で土一揆や打ちこわしが頻発する。 | ||
1735年 | 6代皇帝乾隆帝が即位する。 | ||
1751年 | 清がラサに侵攻し、チベットを保護下に置く。 | ||
1759年 | 清が東トルキスタンを制圧し、その地域を新疆と名付ける。 | ||
1772年 | 10代将軍の老中になった田沼意次は農業ではなく商業を重視した政策を行なった。株仲間(商工業者の組織)の結成を奨励し、営業税の増収を目指した。長崎貿易の制限を緩和し、銅や俵物の輸出増加と金銀の海外流出を図った。 | 中国のありとあらゆる書物の全巻を1つの全集におさめる事業、四庫全書の編集を始める。 | |
1774年 | 前野良沢と杉田玄白がターヘル・アナトミアを翻訳して解体新書を書く。この時の翻訳の苦労は玄白の蘭学事始に書いてある。 | ||
1783年 | 天明の大噴火(浅間山噴火)が起こる。また、天明の大飢饉も起こったため一揆や打ちこわしが激化する。 | ||
1787年 | 11代将軍の老中になった松平定信は再び農業を重視する政策を行なった。質素倹約、非常用の米の増産(囲い米)を行い、江戸に移り住んだ農民を故郷の農村に帰らせた(旧里帰農令)。また、朱子学以外の講義を禁じる寛政異学の禁を出し、昌平坂学問所で武士に朱子学を学ばせた。これらの一連の改革を寛政の改革という。 | ||
1793年 | 改革に失敗した松平定信が失脚して、11代将軍徳川家斉は自ら政治を行なったが、浪費する放漫な政治だった文化は発展したが財政は悪化した(大御所時代)。 | ||
1800年 | 伊能忠敬が日本全土の測量に出発する。 | ||
1804年 | 華岡青洲が世界初の全身麻酔に成功。 | ||
1808年 | 長崎にイギリス軍艦が侵入(フェートン号事件) | ||
1811年 | 国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンを日本の警備兵が監禁(ゴローウニン事件) | ||
1821年 | 忠敬の死後、大日本沿海輿地全図(よちぜんず)が完成する。 | ||
1823年 | ドイツ人医師のシーボルトは来日後、長崎に診療所兼用の塾(鳴滝塾)で蘭学を教えた。 | ||
1825年 | 1792年ロシア使節のラクスマンが根室に、1804年レザノフが長崎に来航し幕府に通商を求めが、幕府はこれらを退け中蘭以外の外国船は見つけ次第攻撃する異国船打払令を出した。 | ||
1828年 | ドイツ人医師シーボルトが日本地図の国外持ち出しを図ったとして国外追放させる(シーボルト事件)。 | ||
1837年 | 天保の大飢饉が起こり、無策な幕府に怒った大塩平八郎が大阪で反乱を起こす(大塩の乱)。 | ||
1838年 | 緒方洪庵が大阪大学の前身である適塾を開き、蘭学を教える。 | イギリスがインド経由でアヘンを中国に輸入し、中国人を薬漬けにした。このアヘン貿易を禁止するために林則徐が厳しくアヘン取り締まりの対応にあたる。 | |
1839年 | アメリカ商船を薩摩藩と浦賀奉行が砲撃する(モリソン号事件)。これを批判した渡辺崋山・高野長英らが弾圧される(蛮社の獄)。 | ||
1840年 | アヘンを持ち込んでいるイギリス人居住区を清軍が攻撃したためアヘン戦争が起こる。 | ||
1841年 | 12代将軍の老中になった水野忠邦は、贅沢を禁止する倹約令(風俗取締令)、株仲間の解散を命じた。また、江戸の出稼ぎ農民を帰村させた(人返しの法)。さらに、江戸や大阪周辺を幕府の領地に組み入れる上知令を計画した。これらの一連の改革を天保の改革という。 | ||
1842年 | アヘン戦争を目の当たりにした日本は異国船打払令から対外政策を緩和し、天保の薪水給与令を出す。 | アヘン戦争に負けた清はイギリスと南京条約を結び、香港島の譲渡と自由貿易を約束させた。 | |
1851年 | キリスト教徒の洪秀全は清を倒して漢民族による太平天国という国を作る乱を起こす(太平天国の乱)。 | ||
1853年 | アメリカのペリーが浦賀沖に来航、老中の阿部正弘が対応し、翌年に日米和親条約を結び下田と函館の2港を開港した(鎖国終了)。これを機に、幕府は函館に箱館奉行所として五稜郭をつくった。 | ||
1856年 | 阿部正弘は江川英龍を登用し、品川沖に6つの台場つくらせた(跡地は現在、お台場公園としてフジテレビなどがある)。また、大砲を作るため韮山反射炉の建設に着手した。 | アロー号という中国人海賊船のイギリス国旗を燃やしたことでイギリスが激怒し、英仏連合軍が清を攻撃する(アロー戦争)。 | |
1858年 | 下田のアメリカ総領事のハリスは日米修好通商条約を求め(横浜・長崎・新潟・神戸の4港開港)、大老の井伊直弼がこれに応じる。しかし、天皇の勅許を得ないまま条約を結んだため天皇を敬い外国人を排斥する尊王攘夷運動(天皇中心+外国人排斥)が盛んになる。幕府の対外政策を批判した松下村塾の吉田松陰らを処刑した(安政の大獄)。 この条約は日本に関税自主権がなく、アメリカに治外法権を認める不平等条約であった。幕府は続いて英・仏・蘭・露とも不平等条約を結ぶ(安政五カ国条約)。 |
清は天津港で停戦協定を結びにきた英仏艦隊を攻撃し、それに激怒した英仏艦隊は北京まで侵攻した。清はロシアに仲介を依頼し、九龍半島の譲渡、アヘン貿易の公認、さらにロシアにウラジオストク沿岸州を譲渡した(北京条約)。 | |
1860年 | 安政の大獄に反発した水戸藩の元藩士らが井伊直弼を暗殺する(桜田門外の変)。 | 近代化を進める洋務運動が活発になる。 | |
1862年 | 京都の治安強化を目的に、京都守護職がつくられ、松平容保(たかもり)が任命される。松平容保の配下として新撰組の近藤勇や土方歳三が京都警備にあたった。 公武合体を推進する老中安藤信正が水戸脱藩士に襲われ、老中を退く(坂下門外の変)。 |
曾国藩と李鴻章の義勇軍、米英からなる常勝軍は太平天国の軍を破る。 | |
1863年 | イギリス人が薩摩藩の大名行列で馬から下りなかったため殺害された(生麦事件)。その後、イギリス艦隊から報復攻撃を受け薩摩藩は敗れる(薩英戦争)。その結果、薩摩藩は攘夷を断念し、開国政策に転換した。 | ||
1864年 | 新撰組の近藤勇らは尊王攘夷派の長州藩の浪士を殺害する(池田屋事件)。この報復に長州藩が京都にいる薩摩や会津藩と交戦するも敗走する(禁門の変)。幕府軍は長州藩を罰するため出兵する(第一次長州出兵)。 長州藩は前年、攘夷のため下関で外国戦を砲撃した。その報復に欧米4カ国の艦隊から攻撃される(四国連合艦隊下関砲撃事件)。これを機に長州藩も攘夷を断念する。 |
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1865年 | 長州藩の高杉晋作は奇兵隊を組織する。 土佐藩の坂本龍馬は長崎で海援隊という商社を設立し、武器や軍艦を購入した。 |
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1866年 | 欧米列強の力の強さを知った薩長両藩は攘夷は困難と考え倒幕へと転じた。そのため幕府は2度にわたる長州征伐を行ったが撃退された。その後、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎の仲立ちで西郷隆盛と桂小五郎(木戸孝允)が密談し薩長同盟が結ばれる。 幕府軍は第二次長州征伐を行うが敗れる。 |
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1867年 | 15代将軍徳川慶喜が二条城で政権を朝廷に返す大政奉還を申し出た。その後、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視らは徳川家を完全に排除するため、徳川家抜きの新政府樹立宣言である王政復古の大号令を天皇が出した(江戸幕府滅亡)。 |
江戸幕府の大御所政治体制
将軍 | トップ |
大老 | 非常時に老中の上に置く最高職 |
老中 | 政務を統括する最高職 |
若年寄 | 老中の補佐 |
大目付 | 老中の下で大名監察 |
三奉行 | 町奉行(江戸の町政)、勘定奉行(幕府の財政、幕府の領地の監督)、寺社奉行(寺社の取り締まり) |
遠国奉行 | 重要な都市の支配 |
京都所司代 | 朝廷と西日本の大名の監視 |
大阪城代 | 西日本の軍事を担当 |
旗本 | 直接将軍に会うことができる1万石未満の武士 |
御家人 | 直接将軍に会うことができない1万石未満の武士 |
大名 | 幕府から1万石以上の藩を与えられた武士。徳川一門は親藩(特に、徳川分家の尾張藩・紀伊藩・水戸藩=御三家という)、古くから家臣だった譜代、関ヶ原の戦い以降家来になった外様に分けられる。 |
藩士 | 大名の家臣のこと。藩士は大名から藩の蔵入地(直轄地)の年貢を支給された(俸禄制度)。 |
江戸幕府の歴代将軍
初代 | 家康(いえやす) | 江戸幕府をつくる。 |
2代 | 秀忠(ひでただ) | 全国にキリスト教の禁教令を出す。一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度を発布。 |
3代 | 家光(いえみつ) | 武家諸法度を改正し参勤交代義務付け。 |
4代 | 家綱(いえつな) | 幼少のため、保科正之らが補佐し文治政治を開始。 |
5代 | 綱吉(つなよし) | 文治政治が定着し、社会が安定したため元禄文化が開花。綱吉は側用人として柳沢吉保(やなぎさわよしやす)を重用した。 |
6代 | 家宣(いえのぶ) | 真部詮房・新井白石による「正徳の治」 |
7代 | 家継(いえつぐ) | 幼少のため、引き続き真部・新井による改革続行。 |
8代 | 吉宗(よしむね) | 質実剛健を旨とし、「享保の改革」を推進。 |
9代 | 家重(いえしげ) | |
10代 | 家治(いえはる) | 田沼意次が幕政の実権を握る。賄賂政治の横行。 |
11代 | 家斉(いえなり) | 松平定信の「寛政の改革」。改革失敗により将軍自ら浪費する政治が行われ、化政文化が開花。 |
12代 | 家慶(いえよし) | 老中 水野忠邦の「天保の改革」。ペリーの浦賀来航で風雲急を告げる。 |
13代 | 家定(いえさだ) | |
14代 | 家茂(いえもち) | 幼少のため大老・井伊直弼が幕政を動かす。 |
15代 | 慶喜(よしのぶ) | 大政奉還し、江戸城を明け渡す。 |
江戸時代の儒学
朱子学 | 身分の上下関係を重視した儒教。江戸幕府が採用し、社会の安定化を図ろうとした。 |
陽明学 | 上下関係は問わず誰とでも懇ろに親しむことを重視した儒教。 |
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