日本史&中国史(中世)

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鎌倉時代

鎌倉時代
(1192年)
源頼朝は征夷大将軍に任命された。に拠点を置き、守護、地頭を設置した。将軍と御家人御恩(地頭に任命)と奉公(軍役)の封建制度によって成立していた。
1202年 頼朝の死後、源頼家が2代将軍となるが、北条時政によって伊豆修繕寺に幽閉され、後に暗殺される。北条時政が執権となる。頼朝はいつどこで死んだかは不明。
1205年 後鳥羽上皇の命により新古今和歌集がつくられる。
1206年 テムジンがモンゴルを統一し、チンギスハンと名乗る。
1212年 鴨長明が方丈記を書く。
1219年 頼朝の妻の北条政子の父である北条時政源実朝を3代将軍に立て、政治を補佐する執権により実権を握り、以後北条氏が執権を継承する。
1220年 チンギスハンがイランのホラズム朝を滅ぼす。
1221年 源実朝が源頼家の息子である公暁に暗殺されたことを契機に、京都の後鳥羽上皇が実権を取り戻そうと挙兵するが、北条政子(尼将軍)に敗北し隠岐に流される(承久の乱)。幕府は京都に六波羅探題を設置し西日本を監視した。以後、源氏の代わりに京の貴族(藤原氏)が鎌倉に招かれて摂家将軍となった。
1227年 チンギスハンが西夏を滅ぼす。しかし、その遠征中に病死する。
1232年 3代執権の北条泰時連署評定衆をつくり合議制による政治を始めた。また、武家による初めての法律である御成敗式目(貞永式目:じょうえい式目)制定した。(ただし、対象は武士のみ) チンギスハンの死後、モンゴル帝国は①中国の元、②中央アジアのチャガタイハン国、③西アジアのイルハン国、④ロシアのキプチャクハン国に分離する。(分裂したのではない!)
1234年 3男のオゴタイハンが金を滅ぼし、ウランバートル(旧カラコルム)をモンゴル帝国の首都にする。
1252年 フビライが雲南と大理国を滅ぼす。
1271年 都:北京市(大都)
フビライ・ハンが南宋を滅して建国する。
1274年 文永の役(第1回蒙古襲来)。元+高麗の連合軍3万人が攻めてくる。元軍は対馬・壱岐を攻撃→博多に上陸。日本側は元軍のてつはうに苦戦。元寇撤退後、幕府は九州の御家人が果たしていた異国警護番役を強化し、博多湾に防塁を築く。 チンギスの孫であるフビライ・ハンは日本に服属を求めるが8代執権北条時宗にシカトされたため日本侵略を決定。
1275年 2代執権北条実時は和漢の書を集め、金沢文庫を建てた。 マルコポーロが大都にきてフビライハンに仕える。
1281年 弘安の役(第2回蒙古襲来)。元+高麗の連合軍14万人が攻めてくる。 2度の暴風雨により日本撤退。
1287年 元寇以降、執権政治の合議制を廃止し、北条氏による専制政治に戻した(得宗専制政治という)。 元はチベット仏教にハマり豪華な寺院を建てたため財政が悪化し、紙幣(交鈔)を大量発行した。その結果、インフレが起こり経済が混乱する。
1297年 元寇撃退に成功したが、御家人の借金も増えた。この借金を帳消しにする永仁の徳政令が発布されるが幕府は衰退していく。
1332年 幕府に従わない御家人を束ねていた悪党楠木正成を利用して後醍醐天皇が2回の倒幕を試みるが失敗し、隠岐に流される。
1333年 後醍醐天皇は隠岐を脱出し、足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とし再度倒幕が成功し鎌倉幕府が滅びる。
1334年 後醍醐天皇は天皇中心とする親政(建武の新政)を行うが、公家を重視したため武士の反発を招き新政は失敗する。
1351年 元に支配されていた漢民族は、朱元璋をトップに反乱を起こす(紅巾の乱)。
室町時代
(1336年)
南朝北朝に分かれる時代=南北朝時代
足利尊氏は新田義貞や楠木正成を倒した後、京都に持統院統の光明天皇をたて北朝を開き、京を追われた大覚寺統の後醍醐天皇は吉野に南朝を開いた。(南北朝時代の内乱を書いた太平記がある。)
1338年 足利尊氏が征夷大将軍に任命され、建武式目という政治方針を出して室町幕府を開く。
1350年 北朝で観応の擾乱という内紛が起こる。
1368年 都:江蘇省南京市(応天府)
朱元璋が大都を攻め落とし元を滅ぼした後、洪武帝と名乗った。
1378年 3代将軍足利義満が室町に花の御所を建てる。将軍補佐役として執権の代わりに管領が置かれ、有力な守護大名斯波細川畠山三管領)が交代で任命された。また、御家人を統率する所司には京極・山名・赤松一色(京都の山は赤一色)が任命された。鎌倉では足利氏が鎌倉公方として関東を支配し、上杉氏が補佐役の関東管領を行った。
1392年 足利義満が南朝を合一し南北朝時代が終わる。 李成桂が高麗を滅ぼし朝鮮を建国
1397年 義満が金閣を造営する。
1402年 燕王朱棣が応天府を攻め落とし3代皇帝永楽帝を名乗る。
1404年 義満は明に朝貢して日明貿易を始める(倭寇と区別するため勘合を使用)。明からは銅銭(永楽通宝)や生糸が輸入された。
※応仁の乱の後は幕府に代わり堺商人+細川氏博多商人+大内氏が貿易する。
1405年 永楽帝が宦官でイスラム教徒の鄭和に命じて大艦隊を南海諸国に送る。
1421年 北京に遷都し、紫禁城をつくる。
1428年 正長の徳政一揆が起こる。
足利義持は朝貢を屈辱とし日明貿易を廃止する。
1429年 中山王の尚巴志が琉球を統一し琉球王国をつくる。
1441年 6代将軍足利義教は強権的であったため暗殺され(嘉吉の変)、幕府の権力が衰退した。
1457年 アイヌ人が日本人からの扱いに不満を持ちコシャマインの戦いを起こす。
1467年 8代将軍足利義政の後継者問題によって守護大名を巻き込んだ11年も続く応仁の乱が起こり、京都は荒廃して人々は地方に移った。この戦いが戦国時代の幕開けとなる。この時、雪舟や宗祇などの文化人は山口の大内氏を頼り移住したため京文化が栄えた。
1485年 山城の国一揆が起こる。
1488年 蓮如の布教活動によって浄土真宗を信仰する農民が増えた。加賀の農民が守護の冨樫政親を追い出した(加賀の一向一揆)。
1523年 貿易の実権をめぐって、中国の寧波で堺商人+細川氏と博多商人+大内氏が衝突し(寧波の乱)、勝利した大内氏が貿易を独占する。
スペイン・ポルトガルの大航海時代が始まり、両国ともカトリック教国であるため進出先で布教活動も行う。アジアの布教活動に注力したのがイエズス会(邪蘇会)。
1543年 種子島に遭難したポルトガル人鉄砲を伝える。その後、鉄砲は和泉の、近江の国友、紀伊の根来などで大量生産される。
1549年 キリスト教が日本に伝来。スペインから来たイエズス会宣教師ザビエルは鹿児島に上陸した後、平戸→博多→山口→堺→京都→山口→大分でキリスト教の布教をした。
1555年 毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢(大内義隆を倒した武将)を滅ぼし中国地方の領土を拡大していった。
1560年 尾張の織田信長が駿河の今川義元に勝利する(桶狭間の戦い)。
1564年 上杉謙信と武田信玄は川中島の戦いで5回戦うが決着がつかなかった。
1567年 信長は美濃の斎藤氏を滅ぼし岐阜城に移る。

鎌倉幕府の政治体制

将軍(鎌倉殿) 将軍は御家人に本領安堵(土地の権利を認める)や新恩給与(新たに領地を与える)といった御恩を与える
①執権 北条氏が世襲した、幕府の実権を預かる地位
②連署 執権の補佐役
③評定衆 合議制に基づく政治を行うために任命された有力御家人11人
侍所(鎌倉) 御家人を統率する機関
公文所→政所(鎌倉) 一般政務をする機関
問注所(鎌倉) 裁判を担当する機関
引付衆 北条時頼が所領関連の裁判の迅速化を図って任命した
京都守護→六波羅探題 朝廷の監視、西国の統括
鎮西奉行→鎮西探題 九州の御家人・裁判統括
奥州総奉行 奥州御家人の統率
守護(諸国) 各国に1人(主に東国の御家人)任命され、大犯三か条(たいぼん)の職務:京都大番役の催促・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕
地頭(荘園・公領) 荘園・公領ごとに任命され、年貢徴収と土地管理を行う

鎌倉時代の文化(鎌倉新仏教)

鎌倉新仏教 庶民でもわかりやすい仏教文化
文学 山家集:西行が著した和歌集
新古今和歌集:後醍醐天皇の命で藤原定家が編纂した勅撰和歌集。定家は小倉百人一首も選定した。
金槐和歌集(きんかい):3代将軍源実朝が著した万葉調の和歌集。
方丈記:鴨長明が著した和漢混合文の随筆。「行く川の流れは絶えずして〜」
徒然草:兼好法師が著した随筆。
平家物語:平家の興亡を書いた軍記物語。
愚管抄(ぐかんしょう):慈円が鎌倉前期までの歴史を道理によって説明した歴史書。
吾妻鏡:鎌倉幕府初代〜6代の歴史書。
代表的絵画 蒙古襲来絵詞:肥後の御家人である竹崎季長が描かせた。
代表的建築物 重源が東大寺南大門(大仏様)・円覚寺舎利殿(禅宗様)を建築。三十三間堂(和様)。
代表的彫刻 東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶作)、六波羅蜜寺空也上人像(康勝作)

 

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