原始(旧石器・縄文・弥生時代)
旧石器時代 BC約3万年 |
旧石器時代=更新世=氷河期 打製石器(尖頭器、細石器、ナイフ型石器)を用いて狩猟・採取の生活していた時代。 |
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【旧石器時代の遺跡2選】 ①岩宿遺跡(群馬県):相沢忠洋が関東ローム層から発見した打製石器があった遺跡 ②野尻湖立ち鼻遺跡(長野県):野尻湖の湖底から打製石器や骨角器、ナウマンゾウの化石が発見された |
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縄文時代 BC約1万年 |
氷河期が終わり、海面上昇により日本は大陸から切り離され現在の形になった(完新世の始まり) 磨製石器や縄文土器を用いた生活を行う時代。狩猟・採取・漁労が中心。人々は竪穴住居に住み、アニミズムを信仰した(土偶、石棒、抜歯、屈葬)。 |
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【縄文時代の遺跡】 ①上野原遺跡(鹿児島県):縄文時代早期の遺跡 ②三内丸山遺跡(青森県):縄文時代中期かつ縄文最大の集落跡が残る ③亀ヶ岡遺跡(青森県):縄文時代後期の遺跡 ④大湯遺跡(秋田県):縄文時代後期の遺跡で、大環状列石が有名 ⑤大森貝塚(東京都):モースが発見した貝塚 ⑥加曽利貝塚(千葉県) |
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(青森県で出土した遮光器土偶は上野の東京国立博物館に所蔵されている) | BC 1600年 |
殷 | 都:河南省安陽市(殷墟) 漢字の元となる甲骨文字が誕生する。殷朝最後の王、紂王が酒池肉林な生活をする。 |
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BC 1046年 |
西周 | 都:陝西省西安市(鎬京) 武王が殷を討ち周が誕生。 |
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東周 | 異民族侵入のため遷都 都:河南省洛陽市(洛邑) |
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BC 770年 |
春秋 | 周王朝を守る有力者の戦いの時代。 秦、晋、楚、斉、燕 楚の国の矛と盾を売る者の話が韓非子という本に残っている。また、蛇足という言葉が生まれたのも楚の国。 |
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弥生時代 BC約1千年 |
丈夫な弥生土器を用い、金属器(青銅器・鉄器)を利用して水稲耕作が全国に広まった時代。収穫した米は高床倉庫で貯蔵した。保存の利く食料が収穫できるようになったため身分の差が生まれ、小さなクニを束ねる支配者が各地に現れる。 | BC 403年 |
戦国 | 戦国の七雄が最強を決める戦いの時代。諸子百家が誕生。 秦、趙、魏、韓、楚、斉、燕 この時代の戦争でどれくらい逃げたかという話から五十歩百歩という言葉が生まれた。 |
弥生時代の代表的遺跡として、環濠集落が残る吉野ヶ里遺跡、稲作跡が残る福岡県の板付遺跡や静岡県の登呂遺跡、高地性集落のある香川県の紫雲出山遺跡、多くの銅剣が出土した島根県の荒神谷遺跡などがある。 | BC 221年 |
秦 | 都:陝西省西安市(咸陽) 秦が中華統一を果たす。始皇帝は度量衡・文字・貨幣の統一を行う。郡県制を施行。思想統制のため焚書坑儒を行う。 |
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BC 214年 |
始皇帝は匈奴を討ち、山海関→嘉峪関までの長城を修築。また、始皇帝陵のために多くの兵馬用を作らせる。 | |||
BC 209年 |
始皇帝への不満が爆発し、陳勝・呉広の乱が起こる。 | |||
BC 206年 |
劉邦が秦を滅ぼす。 | |||
BC 202年 |
前漢 | 都:陝西省西安市(長安) 劉邦(高祖)が項羽を破り帝位につく。地方は重臣に任せる郡国制にした。 |
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BC 約150年 |
「漢書」地理志には、倭に100余りのクニがあったと記されており、そのクニの一部が楽浪郡に朝貢した。日本のことが書かれた最初の書物。 | BC 154年 |
高祖の死後、地方の重臣がトップになろうと反乱を起こす(五楚七国の乱)。 | |
楽浪郡:武帝が朝鮮半島に置いた4郡の1つ | BC 141年 |
武帝が郷挙里選を実施する。 | ||
BC 139年 |
武帝が匈奴を倒すべく張驀を大月氏に派遣。これを機にシルクロードが開通する。 | |||
BC 97年 |
司馬遷が歴史書「史記」を書いた。 | |||
9年 | 新 | 王莽が前漢から帝位を奪うが、考えが古い政治に反発が起こる(赤眉の乱)。 | ||
57年 | 「後漢書」東夷伝には、倭の奴国は光武帝から漢倭奴国王と刻印された金印を与えられたと記されてある。金印は志賀島で発見される。 | 25年 | 後漢 | 都:河南省洛陽市 新を滅し、劉秀が光武帝となる。 |
107年 | 「後漢書」東夷伝には、倭国王の帥升らが安帝に生口160人を献上したと記されてある。 | 97年 | 西域都護の班超がローマ帝国に使者を派遣する。 | |
184年 | 太平道が黄巾の乱を起こす。 | |||
中国 医学 |
張仲景が「傷寒雑病論」を書く。 華佗が外科手術を実施する。 |
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約 190年 |
三国 | 魏:華北の洛陽(曹操) 呉:江南の南京(孫権) 蜀:四川の成都(劉備) |
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208年 | 赤壁の戦い(魏vs呉蜀) | |||
239年 | 歴史書「三国志」の「魏志倭人伝」には、30余りのクニを納めていた邪馬台国の女王卑弥呼は、帯方郡を通して魏に使いを送り親魏倭王の称号と金印、銅鏡100枚を授けられたとある。 | 220年 | 後漢が滅ぶ。 | |
247年頃 | 卑弥呼が亡くなり、卑弥呼の宗女である壱与が王となった。 | 263年 | 魏が蜀を滅ぼす。 | |
265年 | 西晋 | 都:河南省洛陽市 魏をのっとった司馬炎が武帝となり、呉を滅ぼし、中国を統一して晋をつくる。 |
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290年 | 武帝の死後、主権争いが起こる(八王の乱)。その結果、長城の警備が弱まり異民族が侵入して晋は南下する。 | |||
4世紀 | 【朝鮮半島北部】 高句麗 【朝鮮半島南部】 馬韓→百済 弁韓→加羅諸国 辰韓→新羅 |
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313年 | 高句麗が楽浪郡を滅ぼす。 | |||
391年 | <倭軍vs高句麗軍> 倭軍は渡海して高句麗の好太王の軍と交戦し、高句麗軍に撃退される。 高句麗の都の丸都(吉林省集安市)にある広開土王(好太王)碑の碑文に交戦について刻まれてある。 |
316年 | 五胡十六国
東晋 |
【華北】匈奴、鮮卑などの異民族国家である五胡が華北に次々建国する。 【華南】都:南京市(建業) 南下し江南に逃げ、司馬睿が東晋を建国する。 |
古墳時代
古墳時代 約400年 |
豪族の時代。豪族の墓である古墳が巨大化する。古墳には埴輪を並べ、勾玉などの副葬品がある。近畿地方に有力な豪族の連合政権であるヤマト政権が誕生し、その首領は大王(オオキミ)と呼ばれるようになる。 倭の五王(讃・珍・済・興・武)が南朝の宋に朝貢していたことが歴史書「宋書」倭国伝に書いてある。 讃=応神天皇? 珍=仁徳天皇? 済=允恭(いんぎょう)天皇 興=安康(あんこう)天皇 武=雄略(ゆうりゃく)天皇=ワカタケル王→埼玉県稲佐山古墳の鉄剣、熊本県江田船山古墳の鉄刀に銘文あり。 |
420年 | 南北朝 | 【北朝】 都:大同市(平城)→河南省洛陽市に遷都 鮮卑が華北を統一し北魏を建国するが、後に東魏と西魏に分裂。西魏から生まれた北周が東魏から生まれた北斉を滅ぼし華北を再び統一する。【南朝】 都:南京市(建康) 東晋は宋→斉→梁→陳と王朝を変える。長江流域は豊かで漢民族は貴族文化を楽しむ。 |
朝鮮半島から渡来人来て、漢字・養蚕・須恵器の製造法などをもたらした。 漢字を用いてヤマト政権の記録作成にあたった渡来人集団を史部(ふひとべ)という。 |
仏教が信仰され、仏教文化が開花した。 | |||
527年 | 筑紫国造磐井は新羅と結んでヤマト政権に対する反乱(磐井の乱)を九州で起こすが大王軍に鎮圧される。 | |||
538年 (御参拝) |
百済の聖明王は欽明天皇に仏像・経典を送り、初めて日本に仏教が伝来した(上宮聖徳法王帝説)。 ※儒教は百済から渡来した五経博士より医・易・暦とともに伝えられた。 |
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587年 | 豪族の中から頭角が現した仏教推進派で大臣の蘇我馬子は、仏教排斥派で大連の物部守屋を破り、物部氏は滅亡し、蘇我氏が政権を独占した。 |
古墳時代の氏姓制度
氏:血縁関係のグループ(蘇我氏)、姓:身分(蘇我臣)
姓 | 内容 | 詳細 |
臣(おみ) | 大王家より分かれた皇別豪族 | 蘇我臣 |
連(むらじ) | 特定の職能で朝廷に仕える有力豪族 | 物部連、大伴連、中臣連 |
君(きみ) | 地方の有力豪族 | |
直(あたい) | 地方の有力豪族 | |
造(みやつこ) | 国造などに与えられた | 国造>伴造>部曲 |
【直轄地・直属民】
直轄地・私有地 | 直属民・私有民 | 奴隷 | |
大王・皇族 | 屯倉(みやけ) | 名代(なしろ)・小代(こしろ) | 奴婢(ぬひ) |
豪族 | 田荘(たどころ) | 部曲(かきべ) |
飛鳥時代
飛鳥時代 (592年) |
蘇我馬子は、対立していた崇峻天皇を暗殺し、自分の姪にあたる推古天皇を即位させた(初の女帝)。 蘇我馬子は飛鳥寺を建立。 |
589年 | 隋 | 都:陝西省西安市(大興) 北朝の楊堅が南朝の陳を滅ぼし、中国を統一して文帝となる。 |
593年 | 推古天皇は甥である厩戸王(聖徳太子)を推古天皇の摂政とし、これまでの氏姓制度から天皇中心の中央集権の国づくりに協力した。 | 文帝は均田制(土地を与え死後返納させる)、祖調庸制(穀物・布・労働の税を収める)、府兵制(徴兵)を実施する。 | ||
602年 | 百済の僧である観勒(かんろく)が暦法を日本にもたらす。 | |||
603年 & 604年 |
厩戸王は冠位十二階(氏に関係なく個人の能力に応じた階級を冠の種類で分類)や十七条憲法(役人の和、仏教、天皇を重んじる条例)を制定した。 | 文帝は学問を奨励し、役人の採用試験である科挙を開始した。 | ||
607年 | 小野妹子らが第2回遣隋使として派遣され煬帝に謁見。答礼使として隋から裴世清(はいせいせい)が来日。 同年、小野妹子と共に高向玄理(たかむこのげんり)、僧旻(みん)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)が隋に留学。 |
604年 | 文帝の死後、煬帝が皇帝となり、北京→杭州までの大運河の建設を開始する。 | |
610年 | 高句麗の僧である曇徴(どんちょう)が紙、墨、絵具などの製法を日本にもたらす。 | |||
614年 | 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らが隋に向かう。 | 612年 | 煬帝は高句麗遠征を行うが敗れ、隋が滅びる。 | |
618年 | 唐 | 都:陝西省西安市(長安) 李淵(高祖)が建国し、律令制によって国を統治した。 |
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626年 | 李淵の息子の李世民(太宗)が皇帝となり貞観の治という安定期が始まる。 | |||
630年 | 第1回遣唐使の大使として犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が任命された。 | 629年 | 玄奘法師が仏典を求めて天竺=インドに向かう。 | |
643年 | 馬子の子である蘇我蝦夷と孫である蘇我入鹿が厩戸王の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼし権力を集中させる。 | |||
645年 ※日本初の元号は大化! |
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿を暗殺(乙巳の変)し、孝徳天皇が即位。中大兄皇子は飛鳥→難波宮に都を移し、元号を大化とし、天皇中心の国家作りをした(大化の改新)。 | 655年 | 太宗の死後、息子高宗の妻である武氏が中国史上最初で最後の女帝(則天武后or武則天)となる。 | |
646年 | 律令制を樹立するため、4か条からなる改新の詔を出した。①公地公民制(土地と人民を朝廷が直接支配)、②国郡里制、③班田収授法(戸籍・計帳を作成)、④租庸調制。 | |||
658年 | 阿倍比羅夫は蝦夷を攻撃。 | |||
663年 | 斉明天皇・中大兄皇子は百済に援軍を送るが唐・新羅連合軍に大敗(白村江の戦い)。 国内では新羅の攻撃に備えて太宰府の北に水城、西日本各所に古代山城を設置。また、防人という兵士を配置、烽(とぶひ)という狼煙をあげる施設を対馬や壱岐に設置。 |
660年 | 新羅が百済を滅ぼす。百済の遺臣らが兵を集めて抵抗を続け、倭に援軍を求めた。 | |
667年 | 中大兄皇子は難波宮→近江大津宮に都を移し、翌年に即位して天智天皇となり、日本初の令である近江令を制定し律令国家体制を目指した。 | 668年 | 新羅が高句麗を滅ぼす。 | |
670年 | 天智天皇は日本初の全国の戸籍である庚午年籍をつくる。 | |||
672年
倭国→日本 |
天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)と天智天皇の息子である大友皇子(おおとものみこ)が争い(壬申の乱)、戦いに勝った大海人皇子は近江大津宮→飛鳥浄御原宮に都を移し天武天皇となる。 | 676年 | 新羅が朝鮮半島を統一する。 | |
683年 | 唐の貨幣を模倣して日本最古の鋳造貨幣である富本銭がつくられた。 | |||
684年 | 天武天皇は八色の姓を定め、豪族→天皇を中心とした新しい身分秩序に編成した(皇親政治)。 | |||
689年 | 天武天皇は飛鳥浄御原令を制定し、天武天皇の皇后である持統天皇の時代に日本で初めて施行された(令のみ)。 | 698年 | 中国東北部に旧高句麗人を中心に渤海が建国される。 | |
694年 | 持統天皇は飛鳥浄御原宮→藤原京に都を移した。大和三山に囲まれた地。 | |||
701年 | 文武天皇の時代に、天武天皇の子である刑部親王や鎌足の子である藤原不比等に大宝律令をつくり施行された(※日本初の律・令がそろった法)。 ※律=刑法、令=行政法・民法 【大宝律令】 ①中央に二官八省を設置(政治を補佐する太政官と祭事を行う神祇官を置き、太政官の下に八省を置いた)。 太政官:太政大臣>左大臣>右大臣 ②班田収授法を実施(6歳以上の男女には口分田という水田が与えられるが死後は国に返還となる) ③全国を五畿七道に分け、さらに国郡里に分けた。地方に国府を設置し役人を配置した(国司>郡司>里長)。 ④成人男子(正丁)は、租(米)・庸(布)・調(特産品)・雑徭(地方で労役) という税、兵役(衛士・防人)が義務化。 |
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708年 | 武蔵国の秩父から銅が献上され、和同開珎という銅銭が鋳造された。 |
飛鳥時代の人物
天智天皇 (中大兄皇子) |
①難波宮→近江大津宮に遷都 ②日本初の令である近江令を制定 ③日本初の全国の戸籍である庚午年籍を作成 |
天武天皇 (大海人皇子) |
①大友皇子に勝利(壬申の乱) ②近江大津宮→飛鳥浄御原宮に遷都 ③八色の姓を制定 ④日本最古の鋳造貨幣である富本銭をつくらせた |
持統天皇 (天武天皇の皇后) |
①飛鳥浄御原令を施行 ②飛鳥浄御原宮→藤原京に遷都 |
文武天皇 | ①大宝律令を施行:刑部親王、藤原不比等が作成 |
元明天皇 | ①藤原京→平城京に遷都 ②和同開珎をつくらせた |
飛鳥時代前期の文化(飛鳥文化)
飛鳥文化 | 飛鳥地方を中心とした日本初の仏教文化 |
代表的建築物とその代表的彫刻 | |
飛鳥寺 (法興寺) |
蘇我馬子が建立した蘇我氏の氏寺、日本初の本格的な仏教寺院 ※蘇我入鹿の首塚:寺の西側に乙巳の変で殺害された入鹿の首塚がある ![]() |
飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏):現存する最古の仏像で鞍作止利の作、北魏様式 |
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法隆寺 (斑鳩寺) |
厩戸王が建立した寺院、古代ギリシャ建築と類似したエンタシスの柱が特徴 西院伽藍に金堂や若草伽藍の跡地(消失前の金堂が位置)、東院伽藍に夢殿がある |
金堂の釈迦三尊像:鞍作止利(くらつくりのとり)の作、北魏様式![]() |
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夢殿の秘仏の救世観音像(ぐぜかんのん)はフェノロサらの調査で発見、北魏様式![]() |
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玉虫厨子:須弥座部分に描かれた絵画(密陀絵)が有名 ※須弥座(しゅみざ):仏壇を安置する台座で、須弥山をかたどったもの ※須弥山(しゅみせん):仏教の世界観における中心的な山=宇宙の中心 ![]() |
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百済観音像:南朝様式 |
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広隆寺 | 秦氏の氏寺 |
広隆寺半跏思惟像(はんかしゆいぞう):南朝様式![]() |
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中宮寺 | 厩戸王が建立した寺院![]() |
天寿国繍帳(しゅうちょう):聖徳太子死後に妃らが刺繍を命じた![]() |
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中宮寺半跏思惟像:南朝様式 |
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四天王寺 | 厩戸王が建立した寺院、平安時代に天台宗の寺院になったが、戦後独立して和宗の総本山を名乗るようになった。 |
キトラ古墳壁画 | 天文図や四神(玄武、白虎、青龍、朱雀)の壁画は、世界最古の科学的な天文図![]() |
飛鳥時代後期の文化(白鳳文化)
白鳳文化 | 新羅を通して伝えられた唐初期の文化 |
代表的建築物 | |
大官大寺 | 奈良時代、東大寺や興福寺に並ぶ大寺だった寺院。もともと藤原京にあったが、平城京遷都に伴い、大官大寺は平城京に移転し、現在の大安寺(だいあんじ)となった。現在は癌封じの寺として有名である。![]() |
薬師寺東塔 | 薬師寺は天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒を祈って藤原京に建設した寺院で、平城京遷都とともに現在の位置に移された。![]() |
代表的彫刻 | |
薬師寺金堂の 薬師三尊像 |
中央に薬師如来像、両脇に日光・月光菩薩像 |
薬師寺東院堂の 聖観世音菩薩像 |
聖観世音菩薩像(しょうかんぜおんぼさつ)![]() |
興福寺仏頭 | 山田寺の薬師三尊像の頭部と推定されている![]() |
代表的絵画 | |
法隆寺の 金堂壁画 |
敦煌石窟壁画と類似、インド・西域の影響が大きい、1949年に大部分が焼失 |
高松塚古墳壁画 | 中国(唐)や朝鮮半島(高句麗)の影響が大きい![]() |
文学 | 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ):歌聖と言われた |
額田王♀(ぬかたのおおきみ):万葉集に12首残している |
奈良時代
奈良時代 (710年) |
元明天皇♀の時、唐の長安にならい碁盤の目状に区画された条坊制を用いて平城京を造営。政治は娘を天皇家に嫁がせた藤原不比等が実権を握っていた。 | 712年 | 玄宗が皇帝となり、家臣を家柄ではなく実力で採用し、政治が安定した(開元の治)。 | |
711年 | 豪族や貴族が蓄えた銭を回収して貨幣流通を促進させるため、銭を国家に納めることで位階を与える法律を施行した(蓄銭叙位令)。 | |||
713年 | 隼人を鎮圧するため大隈国を設置。 | |||
717年 | 第10回遣唐使として、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄昉が出発する。後者二人は帰国後、聖武天皇に重用される。 | 725年 | 阿倍仲麻呂が科挙に合格し、唐の役人となる。 | |
718年 | 藤原不比等らによって養老律令がつくられた。 | |||
723年 | 人口増加により口分田が不足したため不比等の死後に実権を握った長屋王は三世一身法を発布した。 | |||
724年 | 聖武天皇が即位。蝦夷(えみし)対策として東北に多賀城を築いた(陸奥国の国府と鎮守府を置く) |
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727年 | 渤海使が出羽国に初来日。 | |||
729年 | 天武天皇の孫である長屋王が藤原氏を排除しようとしたため不比等の子達(藤原四子)に自殺に追い込まれる(長屋王の変)。 藤原不比等の娘である光明子(こうみょうし)は聖武天皇の皇后となった。 |
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740年 | 藤原四子の急死によって藤原氏でない橘諸兄が実権を握り(唐から帰国した玄昉・吉備真備を重用)、それに反発した藤原広嗣の乱が九州の太宰府から起こる。 | |||
741年 | 聖武天皇は仏教の力で国を平定しようと(鎮護国家)、各地に国分寺・国分尼寺を建てた。 聖武天皇の妻である光明皇后は悲田院や施薬院を設けて貧民救済を行なった。 |
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743年 | 三世一身法は3代目で逃げられ効果がなかったため、聖武天皇が永久に私有を認める墾田永年私財法を制定した。この結果、各地に貴族や寺院の私有地(荘園)が拡大した。 | 745年 | 玄宗が息子の妻である楊貴妃に溺れ、華清宮でラブラブする。 | |
752年 | 聖武天皇は743年に紫香楽宮で大仏造立の詔を出した後、南都六宗の法相宗の行基の力を借りながら東大寺の盧舎那仏を完成させた。 | 751年 | タラス河畔の戦いで、唐軍がアッバース朝のイスラーム軍に敗れ、唐の中央アジアへの影響力が衰える。 | |
753年 | 鑑真は盲目となりながらも6回目の渡航で来日。東大寺の戒壇で、日本で最初に戒を授けた。その後、759年に唐招提寺を建てる。 | 阿倍仲麻呂は風雨のため帰国できず長安で死去した。 | ||
764年 | 聖武天皇の娘である孝謙太上天皇♀(=称徳天皇♀)の寵愛を得た僧侶の道鏡が政治に口出しするようになる。道教を排除しようと藤原仲麻呂(えみのおしかつ)が恵美押勝の乱を起こすが失敗。 称徳天皇は動乱を鎮めるため様々な寺に百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)を納めた。 |
755年 | 辺境防衛に明け暮れた武人である節度使が反乱を起こす(安史の乱)。 | |
769年 | 道教は自ら天皇になろうと試みるが和気清麻呂によって阻止される(宇佐八幡神託事件)。 | |||
780年 | 伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が多賀城を攻め、焼く。 | |||
784年 | 天智天皇の孫である桓武天皇は仏教勢力が強い奈良を離れ、藤原種継と共に長岡京に遷都した。しかし、種継が暗殺され、弟の早良親王も死んだためその地を離れた。 | |||
792年 | 桓武天皇は諸国に健児を置く。 |
摂関政治
摂政 | 天皇が幼少または女帝である場合に代わりに政務を行うこと。 |
関白 | 成人後の天皇を助けて政務を行うこと。 |
書道
三筆(さんぴつ) | 弘仁・貞観文化 | 嵯峨天皇、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり) |
三蹟(さんせき) | 国風文化 | 小野道風、藤原佐理(すけまさ)、藤原行成(ゆきなり) |
奈良時代の文化(天平文化)
天平文化 | 最盛期の唐の影響を強く受けた仏教文化 |
代表的建築物・彫刻・絵画工芸 | |
唐招提寺金堂 | 現存する唯一の奈良時代の金堂![]() |
唐招提寺講堂 | 平城京朝集殿を移築した宮廷建築の唯一の遺構![]() |
唐招提寺その他 | 唐招提寺の鑑真和上像(乾漆像)、唐招提寺の御影堂に安置されてる![]() |
東大寺 | 諸国に建てられた国分寺の総本山で、華厳宗の総本山でもある |
東大寺法華堂 (三月堂) |
正堂は天平期のもの(礼堂は鎌倉期のもの)![]() |
東大寺法華堂の執金剛神像(しゅこんごうしん)(塑像)![]() |
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東大寺法華堂の不空羂索観音像(ふくうけんさく)(乾漆像)![]() |
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東大寺正倉院 | 校倉造の建築様式の最大・最古のもの![]() |
螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)はインド起源といわれシルクロードを通って伝えられた![]() |
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漆胡瓶(しっこへい)はペルシア風の水差しで、ペルシアの器形と東アジアの漆芸が融合した工芸品![]() |
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鳥毛立女屏風(とりげりゅうじょのずびょうぶ)の月下美人図![]() |
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東大寺転害門 | 転害門(てがいもん)![]() |
東大寺その他 | 東大寺日光月光菩薩像(塑像)は東大寺ミュージアムに安置されている![]() |
戒壇堂四天王像(塑像)は戒壇堂(かいだいいん)に安置されている![]() |
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興福寺その他 | 興福寺の阿修羅像(乾漆像)は八部衆像の1つで興福寺国宝館に安置されている![]() |
薬師寺その他 | 薬師寺の吉祥天像(きちじょうてん)は秘仏で、福徳を司る女神を描いた仏画![]() |
全国 | 過去現在絵因果経は、釈迦の生涯を絵と経文で表した経典で、MOA美術館など全国様々な場所で見られる![]() |
全国 | 百万塔陀羅尼は、主に法隆寺の大宝蔵殿に保存されている。百万塔は、奈良時代に称徳天皇が国家安穏を願って作らせたもので、その中に納められた陀羅尼が百万塔陀羅尼と呼ばれている![]() |
代表的文学 | |
古事記:万葉仮名を用いて日本がどのようにできたか書いた神話で、世界をつくった神の子孫が天皇であると主張したもの(712年完成、稗田阿礼(ひえだのあれ)の暗記を太安万侶(おおのやすまろ)が筆記)。江戸時代に本居宣長が研究をする。 | |
日本書紀:漢文(編年体)を用いて対外的に日本の歴史をアピールするために記したもの(720年完成、舎人親王が編纂)。 | |
風土記:日本各地の地誌。出雲国のみ完全版。 | |
懐風藻(かいふうそう):現存する最古の漢詩集。 | |
万葉集:万葉仮名を用いた日本最古の和歌集(大伴家持が編纂)。 |
平安時代
平安時代 (794年) |
桓武天皇は和気清麻呂の進言を受け南都仏教の勢力から離れるため平安京に遷都した。 桓武天皇は今までの官職では対処しきれない問題を解決するために令外官(勘解由使、検非違使、征夷大将軍など)をつくった。 |
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802年 & 803年 |
桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷(えみし)の指導者である阿弖流爲(あてるい)を服従させた。その後、鎮守府を多賀城→胆沢城(いさわ)→志波城(しわ)にうつしながら東北地方を朝廷の支配下に置いた。 | |||
804年 | 政治と結び付きの弱い新たな仏教を取り入れるため、桓武天皇は第7回遣唐使として最澄、空海、橘逸勢を唐に派遣した。 | |||
810年 | 桓武天皇の子の嵯峨天皇が即位し、藤原冬嗣を蔵人頭(天皇の機密文書を扱う機関)に任命し、冬嗣は朝廷内で強い権力を持つ。 平城太上天皇は平城京遷都をはかる(薬子の変) |
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820年 | 嵯峨天皇は弘仁格式を編纂し法整備に尽力した。 | |||
842年 | 冬嗣の子である藤原良房は橘逸勢などライバル貴族を排除した(承和の変)。 | |||
866年 | 藤原良房は左大臣源信の失脚を狙ったとしてライバル貴族を排斥した(応天門の変)。その後、摂政となり政治の実権を握る(応天門の変は伴大納言絵巻として物語になる)。以後藤原氏が摂政と関白の要職を独占するようになった(摂関政治)。 | |||
887年 | 光孝天皇の子である宇多天皇は摂政や関白を置かず藤原家と距離を置き、学者出身の菅原道真を重用した。 | |||
894年 (白紙へ) |
菅原道真の建議で遣唐使が停止される。 | |||
905年 | 醍醐天皇の命により古今和歌集がつくられる。 | 907年 | 五代十国 | 節度使の朱全忠が唐を滅ぼし、戦乱の時代が始まる。 |
935年 & 939年 |
関東で平将門が、瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こす(承平天慶の乱)。 この頃より、貴族のガードマンであった武士が登場する。清和天皇の血を引く清和源氏、桓武天皇の血を引く桓武平家など高貴な家柄出身の武士が出てくる。武士団の統率者を棟梁という。 |
960年 | 北宋 | 都:河南省開封市(汴州) 趙匡胤が宋を建国し、他の国を次々滅ぼし中国を支配する。 |
1000年 | 枕草子、源氏物語が書かれる。 | 1004年 | 節度使を廃止したため、北方の遼に金品を渡して攻めてこないようお願いする(澶淵の盟)。西夏に対しても同様の対応をしたため財政が圧迫する。 | |
1016年 | 藤原道長は娘を天皇に嫁がせ天皇の外戚となる方法で摂政となり政治を行う。寄進地系荘園からの収入や国司からの贈り物で栄華を誇る。 | |||
1052年 | 道長の子である藤原頼通も摂関政治を行い実権を握る。平等院鳳凰堂ができる。 | |||
1051年 | 東北地方で起きた武士の反乱を源頼義(よりよし)が平定する(前九年合戦)。 | |||
1068年 | 後三条天皇が即位した後、大江匡房(おおえのまさふさ)らを登用し藤原氏を排除した。また、延久の荘園整理令を出して書類不備のある荘園を停止することで藤原氏の資金源を絶った(摂関政治の終焉)。 | |||
1083年 | 再び東方地方で武士が反乱を起こす(後三年合戦)。この反乱を頼義の子である源義家が鎮圧し、東国で源氏の支配権が増大する。また、藤原清衡を助け、奥州藤原氏の基盤をつくる。 | |||
1086年 | 白河天皇は引退後も白河上皇として政治の実権を維持する院政を始める。院政は摂関家に遠慮することなく政治を行える利点があり、その後約100年間にわたり鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇が院政を行った。(出家した上皇=法皇) | |||
1100年 | 徽宗が皇帝となるが、芸術にお金をかけ政治を顧みないため反乱が多発する。 | |||
1125年 | 女真族の国である金と北宋が同盟して遼を滅ぼす。 | |||
1126年 | 金が開封を占拠して北宋が滅びる。 | |||
1127年 | 南宋 | 都:浙江省杭州市(臨安) 徽宗の子、高宗が臨安に逃げ南宋を建国する。 |
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1156年 | 保元の乱(崇徳上皇vs後白河天皇)が起こる。平清盛と源義朝(源頼朝の父)を味方につけた後白河天皇が勝利。崇徳上皇は隠岐に流され、後白河上皇が誕生した。 | |||
1159年 | 平治の乱(平清盛vs源義朝)が起こる。平清盛が源義朝を破り、平氏の勢力が拡大する。源義朝の子の源頼朝は伊豆へ、源義経は奥州平泉へ流された。 | |||
1167年 | 勝利を収めた平清盛が武士として初の太政大臣に就任する。また、清盛は出家して厳島神社、大輪田泊、博多を整備し、日宋貿易に注力した(宋銭の大量流入により貨幣経済が発展。日本は刀剣や砂金を輸出した)。 | |||
1177年 | 後白河上皇は平氏の横暴を疎ましく思い、滅ぼそうと計画を立てるが、清盛にばれてしまい鳥羽殿に幽閉される(鹿ヶ谷の陰謀)。この時清盛は「平家にあらずんば人にあらず」と言った。 後に、琵琶法師が広めた平家物語には「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響あり…」と平家一門の盛衰を書いている。 |
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1180年 | 清盛は娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、子供を安徳天皇として即位させ、外戚となり政治の実権を握る。平氏は南都焼き討ちする。 | |||
1181年 | 清盛は京都→福原→京都と都を移したが病死。その後、後白河法皇の子の以仁王(もちひとおう)が平氏打倒を呼びかけ、伊豆の源頼朝と木曽の源義仲が挙兵し全国的な源平合戦(治承・寿永の乱)に発展した。 | |||
1184年 | 源義仲は京都から平氏を追い払う(平氏都落ち)。その後、後白河上皇が源頼朝に義仲を討伐命令を出し、源義経が義仲を討つ。 | |||
1185年 | 平氏は一ノ谷の合戦(神戸市)→屋島の合戦(高松市)→壇ノ浦の戦い(下関市)という順で敗走し、最後は壇ノ浦で源義経によって滅ぼされる。 | |||
1189年 | 頼朝は義経を匿った奥州藤原氏の4代目藤原泰衡を滅ぼす。また、義経討伐を名目に後白河法皇から国ごとに守護、荘園・公領ごとに地頭を任命する権利を得る。 <守護> 主に東国の御家人が任命され、大犯三か条(大番役の催促・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕)の役割を担っていた。 <地頭> 年貢徴収と土地管理を行う。 |
平安時代の人物
桓武天皇 | ①長岡京遷都(藤原種継暗殺→弟の早良親王を淡路島へ配流) ②平安京遷都(和気清麻呂の進言) ③坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命 ④勘解由使を設置 |
嵯峨天皇 (桓武天皇の子) |
①藤原冬嗣を蔵人頭に任命 |
平安時代前期の文化(弘仁・貞観文化)
弘仁・貞観文化 | 空海と最澄が導入した新しい仏教文化 |
代表的彫刻 | 一本の木で作り、布の皺を表現したものが多い(一木造・翻波式)観心寺如意輪観音像。 |
代表的絵画 | 仏涅槃図:高野山金剛峯寺にある最古の涅槃図。 |
両界曼荼羅(りょうかいまんだら):教王護国寺にある曼荼羅。曼荼羅とは大日如来を中心とする密教の世界観を図像化したもの。 | |
代表的建築物 | 延暦寺、金剛峯寺、室生寺(密教寺院) |
平安時代後期の文化(国風文化)
国風文化 | 遣唐使廃止後の日本独自の貴族中心文化 |
文学 | ひらがな・カタカナの誕生 |
古今和歌集:日本初の勅撰和歌集。紀貫之が醍醐天皇が命じられ編纂。 | |
竹取物語:日本初の物語。かぐや姫が登場。 | |
伊勢物語:超プレイボーイの在原業平(ありわらのなりひら)が主人公の歌物語。 | |
源氏物語:世界最古の長編小説(紫式部著)。全てひらがなで書かれている。式部は藤原道長の娘の家庭教師でもあり、超プレイボーイの光源氏は道長を書いたものと言われている。 | |
枕草子:宮廷生活などを描写した随筆(清少納言著)。納言は藤原道長の兄の娘の家庭教師をしていた。 | |
土佐日記:ひらがなで書かれた日記(紀貫之著)。 | |
大鏡:大宅世継(おおやけのよつぎ)と夏山茂樹(なつやまのしげき)の対話形式による藤原道長の栄華を語った昔語り。大鏡→今鏡→水鏡→増鏡と続く(大根水増し)。 | |
絵巻物:大和絵(=日本的な絵画)と詞書を織り交ぜて描かれた巻物。四大絵巻として、源氏物語絵巻、鳥獣戯画、伴大納言絵巻、信貴山縁起絵巻がある。 | |
梁塵秘抄(りょうじんひしょう):平安末期に貴族間で流行した今様(=当時の流行歌)を後白河法皇が集めた歌謡集。今様を歌いながら舞う男装した女性を白拍子という。 | |
代表的彫刻 | 複数の木を寄せ集めて作られたもの(寄木造)平等院鳳凰堂阿弥陀如来像(常朝作) |
代表的建築物 | 浄土思想の阿弥陀堂(寝殿造の平等院鳳凰堂、富貴寺大堂、白水阿弥陀堂、浄瑠璃寺本堂、中尊寺金色堂、熊野三山の大社) |
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